2022.02.14 おりひめ作業会報告
かねてからおりひめ歌会のお相手のまさやまさんと企画していたおりひめ作業会を開催した。
14:30〜15:30の一時間の作業で、途中にお茶休憩を挟むという形になった。
私は詩も書ければと思ったのだけれど、おりひめ歌会の作業会ということもあって、短歌に専念することにした。
これまで同様メモ帳を使って詠んで、結果は43分で9首だった。
Time Timerを使っていたこともあって良い緊張感があり、集中して詠むことができた。
ここのところ短歌を詠む際にはもっぱらこのアルバムを聴いている。
能楽や雅楽をベースとした音調が心地よく、短歌を詠むにも雅趣を添えてくれてとても良い。
詠んだ短歌はどこかに投稿するかもしれないので、現時点では非公開としておく。
療養詩歌を作るという気持ちで詩歌と向き合ってきたこの一年強は長く厳しいものだったけれども、その形を継承しつつも、さらに次の模索へと進んでいきたいと思っている。
その模索を続けながら最近は詩を書き、短歌を詠んでいる。まだ方向性が定まらないので、一旦療養詩歌というベースに戻るべきかとも思っているところで、その答えはまだ出ていない。
数日前、日記に以下のように書いた。
病んだ心身というフィルターを通じてしか物事を知覚できないことに、私は強い理不尽さを抱えてきた。物語の多くの主人公たちは健康な男女だし、そこに私のように心身を病んだ人間の居場所はないという思いが強かった。
そういう病んだ心身を通じて映し出される世界というものを作品に留めておくというのは、世間一般からすると価値のないことなのかもしれないが、それでも私はその世界をわずかばかりでも残しておきたいと思う。
アウトサイダーアート、あるいはアールブリュットという言葉が世の中に認識されるようになって久しい。同じような試みが文学でも可能であるならば、それを表現してみたい。
もっとも短歌という枠の中を前提とした話でもあるし、私は私以外の病者について語る資格を持ち得ない。ただその個別的な人間の悲喜交々は、おそらく文学という器では普遍性を持ちうるのだろうし、そこに文学の豊かさがあると信じている。
この時とスタンスとしては変わってはいない。
ただ志向する方向性は、より病そのものの病相に踏み込む形となった。
この距離感がまだなかなかうまく測れない。知覚する世界を詠めばそのまま病を描くことになるのか、あるいは自己と病との線引きをいかにするかなど、一言で療養詩歌と云っても、そのあり方はまだまだ模索の余地がある。
そのもどかしさと、新たな可能性を感じながら短歌を詠んだ。
それから休憩時間にはダージリン1stフラッシュと、GODIVAのチョコレートでお茶をした。
まさやまさんはコーヒーとチョコレートでお茶をしたと写真を送ってきてくれて、それからさらに作業をして、会はお開きとなった。
まさやまさんも仕事の合間を縫って付き合ってくださったので、長話はせずにお別れしたけれど、彼女とはまたいずれ短歌読書会をしようと提案してみようと思っている。
共通の知り合いである主人も参加の意欲を示しているので、また夜ごろに連絡してみるつもりだ。
そうしてつながりを得ながら創作をつづけていられることにまずは心から感謝したい。