この一年を通じて穴から見えたもの

とある経緯があって、創作ブログをnoteに移そうかとも思ったのだけれど、noteの運営がどうにも好きになれないのと、Twitterをようやく退会したのに、また似たような界隈と繋がるのが嫌で、結局はてなブログで細々とつづけていくことにした。

少し記事を整理したいという気持ちはあるので、下げるものは下げて、順次整えていきたい。

人ともっとつながりたいという思いはたしかにあるのだけれど、結局のところ創作グループに所属して上手くいった試しがなかったし、私は村上春樹が『職業としての小説家』で語っていたように、創作をする人と和して生きていけない人間なのだと思う。

またここのところ田山花袋『東京の三十年』を読んでいて、田山花袋にとっての国木田独歩のような存在がいればいいのにと思わなくもないけれど、拗らせすぎた若年男性の「何者かになりたい欲」と身勝手な嫉妬心をぶつけられるのにいい加減疲れていて、PTSDも再燃したことだし、そうした環境からしばらく距離を置きたい。

20代を通じて、ずいぶんと創作に携わる人を見てきたけれど、結局のところ自分自身を最大のライバルと見なす他に上達の道はないのだろうと思う。

他者と比べたところでどうしようもないし、ただ黙々と詩を書きつづけていけば、やがてどこかに届くこともあるのかもしれない。

ココア共和国に三カ月連続で佳作として採っていただいたことも、Twitterやしがらみの多い場所にいては、決して叶わなかったことだったと思っている。

今月末には金澤詩人賞の〆切が待っている。いくつか詩を書いてみて、幾らか気に入ったものもあったので、そちらも応募するつもりでいる。

黙々と誰にも見せずに詩を書くことはただただ苦しいけれど、そうして自分自身の詩を選ぶ目を培うことは、私にとって何よりも大事なことなのだろうと思う。

他者からの評価軸だけで自分の詩の良し悪しを定めてしまうと、何が詩として成立していて、何がだめなのか、まるでわからなくなる。

私はこの11年間というものの、ほぼひとりきりで詩を書いてきたから、頼れるものは自分の目だけだ。その目を養うことは、詩を書く上で何よりも欠かせない技術となる。

そこにインスタントな評価は必要ないし、賞賛もいらない。

自分と向き合いつづけたこの一年は、リスパダールの投与によって幕を下ろそうとしている。

もっと早くにリスパダールを処方されていればこんなに苦しむこともなかっただろう。

しかし、その苦しい状況だからこそ見えてきたものがあったし、詩を書きつづけられたのだ。

先日読んだ渡辺和子シスターの『置かれた場所で咲きなさい』に「穴から見えるものもある」と説かれていたけれど、この一年がまるで無意味だと思い詰めてきた果てに、見えたものはたしかにあったと思える。

希死念慮に見舞われてもなお、自分自身の軸をしっかり掴んで離さなかった一年でもあった。

苦しみつづけた日々、小説が書けなくなって足掻きつづけた日々にもようやく光が差そうとしている。終わりのない夜を自分自身の足で歩みつづけたことをまずは認めたい。