【深夜の文章キャス】鏡花という原点に立ち返って

読む本に困って、本棚をぼーっと眺めていて気づいたのだけれど、私の本棚には怪談や怪奇小説と冠するタイトルの本があまりに多いと分かった。

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これまではホラー小説は苦手だと思っていたし、怪談にもさほど興味はないと思っていたのに、本棚の中には何冊もの類書が並んでいる。

実際には興味関心を持っているのだということが明らかになって、これまでのホラー忌避は何だったのだと目が覚めた想いがした。

ホラー小説を書こうとしてなかなか上手くいかず、結果的に小説の道を半ば諦めることになり、ホラーというジャンルを以前よりもさらに敬遠してしまっていたのだけれど、どうやら私は根源的に怖いものが好きらしい。

考えてみればポケモンのゴーストタイプのポケモンの説明文を読んで、その恐ろしさとかわいさがないまぜになった感情を味わうことがとても好きで、主人からも「雨伽は怖いものが好きだからね」と云われていたし、自覚がなかっただけなのかもしれない。

 

また読書欲も落ちていたり、興味関心の幅が持病で狭くなっていたりと、自分の本棚と向き合うことがここ最近までとても苦痛だったのだけれど、本棚と向き合って自分の興味の在処が一目で分かるという当たり前のことに気づかされた。

本が読めない時期もひたすら本を買い漁っていて、そのことに罪悪感を感じていたけれど、興味を可視化するという点において積読本ほど役立つものはないなという新たな発見も得られて、一挙両得といったところだ。

 

ここのところかつて主人にプレゼントしてもらった蟲師をそろそろ読みたいと思っているのだが、漫画を読むのは苦手で、どうしても途中で止まってしまう。

そうした時に山×怪異という要素を盛り込んだ、東雅夫編『文豪山怪奇譚』の存在を思い出した。

図書館で二度借りて読むほど気に入っている本なのだが、まだ手元にはない。

この本を買って再読してもいいのだけれど、二度も借りている本だから電書ではなく紙の本が欲しいし、とはいえ今すぐ読みたいという想いが募ってきて、ひとまず鏡花の「薬草取」が収録されていることから、鏡花を読もうと思い立った。

 

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去る9/7は鏡花忌ということもあり、今年はまだ絶筆の「縷紅新草」を読んでいなかったなと思い出して、『薄紅梅』所収の同作を再読した。

鏡花忌はとうに過ぎてしまったのだけれど、やはりこの時期になると「縷紅新草」を読みたくなる。
高貴な生まれの美女が、いじめられて自死するという設定は鏡花の小説に頻出するのだけれど、この小説をもってひとつの終着点にたどり着いたのだと感じる。
初路さんが亡くなって墓となってもなお美しさを留めていて、擬人的な表現で描かれるという点は、ある種「天守物語」などに見られるように、人間を超えたあやかしになったと捉えることもできるだろう。
蜻蛉というモティーフがここまで際立って哀切で美しく描かれた作品を私は他に知らない。
また来年もきっと読み返すだろう。

学生時代に夢中になった鏡花にふたたび戻ってきたことに、今は不思議な縁を感じている。

思えば縁あって鏡花の初版本をいただいたり、『鏡花小説・戯曲選集』揃をいただいたり、小説の文体を構築する上で鏡花に多大な影響を受けたりと、鏡花の法灯を継ぎたいと常々思っていた私にとって、鏡花の作品は立ち返るべきひとつの原点であり、また頂点であるとも云えるのだろう。

鏡花的な小説を書きたいと思ってきた学生時代を改めて思い返すと、私の執筆意欲の源流には『高野聖』「天守物語」「夜叉ケ池」「海神別荘」『春昼・春昼後刻』「竜潭譚」をはじめとする怪異譚の作品群があったし、これからもそれは変わらないのかもしれない。

自分にとってもっとも大切なものを見失いかけていた今に至って、改めて鏡花と出会い直せたことに心から感謝するとともに、いずれまた小説を書けるよう、励んでいきたいと思う。