自由詩「世界が海に満たされる日」を公開しました

自由詩を模索すべく、詩を新たに書いた。

世界が海に満たされる日

どうしようもなかったね

何もかも失われてしまうぐらいなら

せめてきみひとりだけでも

私のものにすればよかった

藤色のリボンで手首を結んで

シーツの海に投げ出されても

わたしたちはふたごだもの

永遠に分たれることのない

共感と官能と未知への期待ドーパミン

こころをつないでくらげになって

やがてひとつに還る日まで

さまよいつづけてもリボンは切れない

たましいがきみを求めていたのに

たったひとつの言葉すら完遂されないまま

海に満たされた世界でまた会える日は

もうこない

kakuyomu.jp

自由詩はなかなか手ごたえが掴めずにいて、どうしてもポエム調になってしまうのが厭だと主人に話したところ、「ポエムを低く見るのは良くないよ」と云われた。

私が愛するJ-POPの多くも、結局のところポエムの一種だし、それを嫌悪していても先に進めないのだと思う。

感情を歌うことに詩の原点があるのだとしたら、こぼれてくる言葉を拾い上げて連ねていくことが私にできる唯一のことで、もっと上手くなりたい。

この詩を送った主人に「前より上手くなったんじゃない?」と云われて、普段私の作品を全く評価しない彼からそんな言葉をもらえたことがうれしかった。

セカイ系の百合のイメージでこの詩を書いたのだけれど、もっと詩情を感じさせるような、飛躍を上手く作れるといいなと思う。

まだまだ意味に囚われすぎていて、自由な飛翔がなければ詩としての魅力が損なわれる。

さらに模索をつづけて、いずれは自由詩もココア共和国に投稿できればと願っている。

まだまだ未熟だけども、伸びしろはあると思ってさらに励んでいきたい。

自由詩はより広い可能性を秘めた詩型なのだろうし、さらに詩を読むなどして自分の表現を高めたい。

ちなみに「世界が海に満たされる」という表現は佐藤弓生の『世界が海におおわれるまで』を意識したタイトルで、彼女の繊細な短歌の数々にインスパイアされていると云っていいかもしれない。

写実と幻視の狭間で詩歌を作っていこうと決めたのは、『モーヴ色のあめふる』のあとがきに拠るところが大きかった。以下に引用しておく。

これまでにいただいた「幻想的という評言は、この歌集にも当てはまりそうです。幻想は“ほんとうのこと”の種なしには産まれません。「ただロマンチシズムとリアリズムとは、主観の発想に関するところの、表現の様式がちがふのである」と萩原朔太郎は述べています。表象はどうであれ、詩歌は心の真実のためにあると考えます。

──佐藤弓生『モーヴ色のあめふる』書肆侃々房、2015年、p156

こうして読んできた詩歌がさまざまな形で詩作に大きな影響を及ぼしてくれるのは大きな喜びだし、今後とも読書に励みつつ、自分の詩の形を探し求めていきたい。