【深夜の文章キャス】一週間毎日詩を書いた振り返り
別段そうしようと決めたわけではないのだけれど、ここ一週間ほど毎日一編ずつ詩を書いているので、少し振り返っておきたい。
詩に傾倒している要因のひとつは、短歌というよりは歌壇に幻滅したというのが最も大きな理由なのだけれど、それは置いておく。
ただ二兎を追うもの一兎も得ずとも云うし、今は詩を書くのが楽しいから、詩を書くことに注力したい。
短歌を詠むこと自体は好きだけれど、数年前からはじめた短歌と、十一年にわたって書きつづけている詩はどうしてもウェイトが違う。
歌いたい時に口をついて出るもの、それが詩だと思っている。
短歌もまたそういうものだと思うけれども、三十一文字に押込められない感情を歌うには、私にとっては詩、それも散文詩が一番しっくりくるということなのだろう。文字数さえ数えていられない衝動が自分の中にあって、それを温度を失わないまま言葉にするという過程に詩はある。
逆に内的な衝動がなければ詩は書けないし、実際のところ今月の半月ほどはまったく詩を書かずにいた。
その間、私が私である、それも病める私であるというところに立脚しなければ詩は生まれ得ないのだということを強く意識した。
そういう背景もあって、耽美主義から離れて、短歌でも療養短歌というジャンルを意識して短歌を詠んで、病める自分を詩に書いてきたけれど、その切実さが今の私にはあるのだということを自覚して、今後とも創作に励んでいきたい。
折本詩集・折本歌集も引き続きよろしくお願いします。
私は個人主義に立脚することにここのところ強い懸念を感じてきたけれど、それでも小説の誕生が近代化による個人主義の台頭と不可分な関係にあり、「私」に拠って立つものだとするならば、それをやはり否定することは難しいのかもしれない。
どこかの地縁的・血縁的共同体に属している私から、個人としての「私」を深く見つめなければ小説が生まれ得ないのと同様に、近代以降の詩がそうであったように、詩もまた個人主義と無縁ではいられない。
要するにここのところ私が拠っていた保守的な考えというものは、創作をする上では打破せざるを得ないものであり、その痛みを今は受け止めなければならないのだと思う。
もはや前近代には戻り得ないし、私は「病める私」を書き、歌い、詠むしかない。
その共同体の喪失が物語において必要な要素を占めているのは、何も小説に限った話ではないのかもしれない。
今日は白い砂のアクアトープ5話を観てぼろぼろ泣いて、そこからまだ回復しきれていないのだけれど、この物語も母からの独立と成長という物語の主軸を持っている。もはや「地縁・血縁的共同体の中で安穏としていられる私」ではいられない。
その痛みと、私自身、母との関係で深く葛藤してきただけに、風花と自分自身を重ねてしまってひたすら泣くしかなかった。物語が親子の希望を描くということは、それだけで村上春樹の云うところの「善き物語」としての役割を担っているのだと思う。
主人からも「風花ちゃんは(性格が)雨伽に似てるよね」と云われて、思わずB2タペストリーを予約した。
私もまた夢にやぶれて小説を書くことを断念し、詩歌に新たな道を模索する日々を送っている中で、このアニメと出会えたことは本当にかけがえのない宝物となっている。
毎話泣きながら観ているので、いずれはできれば円盤も手に入れて手元に置きたい。
まだ保守的な考えに安住して、そこから一歩も抜け出せなくなるには早すぎる。
もっと詩歌を作ることを通じて新たなことに挑戦したり、自分にできる創作の形を模索したりして、自分の道を切り開いていきたい。