【深夜の文章キャス】もうすぐ累計600首到達&てきちゃん漂流日記について

昼頃詩を書き、短歌を詠んだ。

ここのところ食欲がなくて一日二食生活を送っているせいか、弱っていてどうにも創作意欲も上がらないし、自分の短歌にもまったく自信を持てずにいて、ぱらぱらと折本で作った歌集を読み返して、そこでようやく気持ちがなぐさめられる自分がいることに気づいた。

f:id:aniron:20210728193736j:plain

f:id:aniron:20210726173632j:plain

booth.pm

療養短歌をテーマに詠んだ、短歌30首を収めた折本歌集のPDFです。 失われた恋への挽歌、過ぎ去った夏へのノスタルジーをサブテーマとし、ダークでゴシック、耽美な作風を志向しています。

世の終わり詩神は死せず海の果てきみとふたたび巡り逢うまで

AnthemはCoccoだったね沈黙を守ってふたり白百合の園

これまで私はほとんど誰にも見せないままひとりきりで短歌を詠んできた。

そうして自分の中で充足し、さらに詠んで選歌をするという過程を何よりも重んじてきたのではなかったか。

ここのところそうした短歌との向き合い方を忘れつつあり、また自分自身の信仰や思想と現代の歌壇の風潮という葛藤があって、一時期は短歌を全く作れなくなってしまっていた。

それも今ようやく克服しつつあるところで、今こうして折本を再読し、改めて思想にせよ信仰にせよ、あくまでも自己に根ざした短歌を詠むことの大切さを実感している。

 

療養短歌を詠むと決めてから、さまざまな療養文学に触れてきた。

中でもアンナ・カヴァンの影響と、石田波郷『惜命』、梅地和子『鬱の壺』の影響はかなり大きい。

歌集 鬱の壺

f:id:evie-11:20210620111407j:plain

f:id:evie-11:20210612172241j:plain

f:id:evie-11:20210422162131j:plain

 

『惜命』に端を発した療養文学の旅は、高村光太郎智恵子抄』、横光利一『春は馬車に乗って』『花園の思想』の再読という恩恵ももたらしてくれた。

f:id:evie-11:20210609205540j:plain

f:id:evie-11:20210609205606j:plain

 

また日記を書いていなかったら療養短歌を詠もうとは思わなかっただろうと思う。

aniron.hatenablog.com

自分の絶望を言葉で掘り下げることの厳しさと、そうして分かち合えるものの豊かさを日記が教えてくれた気がする。

ここのところ日記では思想や信仰について書くことが多いけれども、それも自分の内面を掘り下げるという点ではかけがえのない行為になっている。

今のところの結論としては、やはり私は神道と、それ以前の民間信仰に帰依している人間で、それは揺るがしがたいアイデンティティだということだ。

f:id:evie-11:20210803235554j:plain

その複雑な葛藤から、現在の急進的な風潮の強い歌壇に抵抗を感じ、短歌を詠むことをためらってきたのだけれど、それでも私は私の路を往くしかない。

週末には歌会も控えているし、もう少しペースアップして、これまでのように毎日作歌に励みたい。

 

また療養文学ということで、先日リトルプレスを扱う「犬と街灯」というお店で、双極性障害の男性が書き綴ってきた日記を購入して読み進めている。

inumachi.stores.jp

f:id:aniron:20210804235139j:plain

これがまた面白く、双極性障害という重いテーマを扱いながらも、他者に向かって常に開かれているという魅力が詰まっている一冊だ。

軽妙で飄々とした語り口から紡がれるさまざまな出来事は、まるで軽快なラジオを聴いているようで、闘病日記という重みも持ちつつも、軽みも持ち合わせている。

著者のてきちゃんははてなブログで日記を書いていると知り、こちらも気になっているのだけれど、まだアクセスできていない。

labotekichan.hatenablog.com

ゆくゆくは私も日記をどこかのタイミングで電書化できたらいいなと考えているので、リトルプレスという形にはならないかもしれないが、参考になる部分は多分にあると思うし、期待しながら読んでいる。

だが私の文章は硬く閉ざされていて、これまでに書いてきたように、世界とシェイクハンドできていないというコンプレックスを未だに抱えている。

こうして綴った文章が、どこかのどなたかに届いていればいいのだけれど。

それは詩でも短歌でも、あるいは小説でも変わらない。

コアとなる自己にあまりにも拘泥するあまり、他者に開かれた文章を書けていないのではないか、あるいはそうした作品を生み出せていないのではないかという疑問は未だに抱いている。

絶望を掘り下げることで、共鳴できる人もいるかもしれないとこれまで思って書いてきた。

それはアンナ・カヴァンを読んでいても、あるいはかつてシルヴィア・プラスを読んでいても感じたことだったけれど、自己と他者とをつなぐツールとしての言葉を、私はもっと重んじるべきなのかもしれない。

 そういうことを考えながら読み進めている。