世界とシェイクハンドしたい
一日中妙に消耗していた。
歌壇の現在の潮流と自分の思想がそぐわないことに悶々としてしまい、歌壇から離れたところで作歌をしていくべきではないかと思い悩んでいたのだ。
しかし思想と作品とはまた性質を異にするものだし、その影響は免れ得ないとしても自分自身の信仰や思想を歌に詠み込むかどうかは私個人の裁量にゆだねられている。
もともとゴシック志向な短歌を詠んできて、その姿勢は今後とも変わらない。
神棚を新たに設け、思想は保守に拠りながら、それでもキリスト教へのあこがれや、ノンバイナリーとしての自我を完全に切り捨てることはできないし、それが創作の糧となっているのなら、むしろ生かすべきだとも思う。
ここのところ急激に視野が狭くなっているという自覚があり、あまり好ましいことではないなと思っている。
カトリックに帰依することはないかもしれないし、あるいはいずれどこかで帰依するかもしれないけれど、いずれにせよ創作のイマジネーションの泉として、拠るところは大きい。それはそれでいいのだろうと思う。
白黒をつけてどちらかを選ばねばならないと考えれば自ずと苦しくなる。
そして自然と自分の思想というものは短歌に表れていくのだろうし、その結果生まれてきたものが、たとえ歌壇に歓迎されないものであったとしても、私は私の作品を掲げていくしかない。
夕方、角川短歌7月号を読んでいて、短歌の可能性というものは、私が捉えているよりずっと広いということに気づけたのも収穫だった。
気に入った短歌はいくつもあるけれど、それはこの記事の趣旨から逸れるので追々挙げることにする。
ただ自分の視野が著しく偏って狭くなっていたことを知ることができたし、そういう点でもっと多くの作品に触れていく必要性を強く感じた。
何事も勉強だと思って、たとえ自分とは毛色の異なる主張のものにも触れていかないと、どんどん偏屈になってしまうなといたく反省した。
その上で、自分の考えを持って作歌に臨むべきなのだろうし、はじめから何ものをも拒絶していてははじまらない。
世界とシェイクハンドすることが大切だと、主人に前に云われた。
その意味が少しばかり分かってきた気がする。
ゴシックはもともとカウンターカルチャーとして生まれた、という趣旨のことが『ゴシックの解剖』にも書かれていて、まだ読み終えていないのだけれど、近いうちに読破したい。
むしろゴシックな短歌を作りつづけることが、自分の思想へと逆輸入されて、保守からカウンターへと変化していくことにもつながっていくのかもしれないし、今はまだ自分の思想をこれと強く思い詰めない方がいいのだろうとも思う。
ノンバイナリーとしての自己を強く意識した時期も長くつづいたし、そういう点では保守とも完全には云いがたい部分があるのはたしかだ。
人間というものはさまざまなレイヤーでできていて、その多層化した自己をひとつの枠組みに当てはめること自体難しいのかもしれない。
できるだけさまざまな知見を集めて、柔軟な姿勢で学び、そして作歌に励みたい。