【深夜の文章キャス】短歌と思想と

昨日から短歌を詠みあぐねてしまって、まだ答えが出ない。

実作を通じて、あるいは短歌を読むことを通じてそこを打破していかねばならないと思い、角川短歌7月号をふたたび開いた。

読み止しのまま止まっていて、病みつかれて長い文章が読めなくなっているので、短歌を味わおうと思ったのだった。

そこで平山良明「植物の理性」という作品に出会った。

思想と良心学問の自由を保障せし憲法の心断崖に立つ

 

太平洋の要石と呼ばれし沖縄に「命」預けて八十六年

 

火の神(ヒヌカン)の煙は真直ぐに延びて行く吸い込まれゆく御祖の魂に

 

那覇空港の凹みに無数の不発弾地下では戦争終わっていない

沖縄慰霊の日が過ぎた。

私は被爆地出身だったため、沖縄戦のことは小中学校の平和教育を通じて学んだ。

沖縄戦を題材にした教育アニメも観たし、当時のことは鮮明に覚えている。

戦争は終わっていない。先頃も沖縄では不発弾が見つかったとニュースで報じていた。

被爆地に育ち、被爆校を出た私にとって、夏は慰霊の季節だ。

それは被爆地から遠く離れたこの東京にいても変わらない。蝉時雨を聴くたびにあの戦争で、原爆で亡くなっていった方々に想いを馳せずにはいられない。

だから軽々に神道の神々を歌に詠み込んでいいものかどうか、やはり迷ってしまう。

私が信じているのは国家神道ではないし、あくまでもふるさとに伝わってきた土着の民俗宗教だけども、やはりそうした歌を詠むことで、少なからず傷つく人もいるのではないかと思ってしまう。

学術的に考えれば両者は切り分けてしかるべきだし、その点はクリアしていると考えたいけれど、やはり神道という宗教そのものがあの戦争をまだ克服できていないのではないかという想いは常に抱いている。

そういうこともあってカトリックに傾いていた背景には、神道から離れたかったという思いもあったのだ。

民俗宗教はそうした国家神道に必ずしも回収できない側面は多分にあるし、私の信ずる神々は歴史が室町時代にさかのぼるということが調べた結果分かったけれども、それでも強い懸念を抱くのは、一応名のある大学で記紀神話を学んだ人間としての性なのかもしれない。

詠み手がどのような形で表現しようとも、受け手の解釈は自由だ。そこでナショナリスティックな解釈をされても文句は云えない。

単なる趣味、では終わらないのだ。

できるだけ今後ともさまざまな視野を持って勉強をつづけていかねばならない。

短歌のことはもとより、神道に関しても、最新の論考にはまだほとんど触れられていない。積んでいる本も山のようにある。

あの戦争の痛みから、私はどうしても目を背けるわけにはいかないし、そういう教育を施されて育ってきた。その想いは何よりも大切にしたい。