【深夜の文章キャス】短歌と時勢と

暑さとホルモンバランスの乱れで一日参っていた。突発的に泣きたくなったり、何もかもを投げ捨てたくなったりする。

創作もできず、短歌も少しばかり詠んだけれど手につかなかった。

昨夜読んだ「ルックバック」のことをぼんやりと思う。創作は呪いだ。創作に生かされている部分もあるけれど、それでも青天井の世界で高みを求めて足掻きつづける苦しさに参ってしまうこともある。

今日はそういう日で、一向に動けずにいた。

そうしてみるとおおよそすべてが無意味に思えてくるので、やはり創作から離れて生きていくことはできないのだろう。私もまた創作で道を踏み外した人間だと云っていいのかもしれない。なんとも因果な話だと思う。

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実は神道に回帰するにあたって、創作でもそうした要素のものを取り入れられないかと思ったのだけれど、大学で記紀神話を専攻し、ナショナリズム社会学の講義を受け、近代文学と戦後のさまざまな動向を聞きかじっている身には、無神経かつ無批判にそうした信仰を織り込んでいいものかどうか、少し立ち止まって考えてしまう。

戦争翼賛の作品を詠みつづけ、戦後に歌壇から排斥された前川佐美雄のような歌人の例もある。

もはや戦後ではないのかもしれないし、日本趣味的な作風で詠んでも何ら問題はないのかもしれないけれど、前川佐美雄の『捜神』に触れた衝撃は未だに私に爪痕を残している。

 私はどちらかというと保守的な人間だし、その思想や信仰の発露として短歌を詠まざるを得ない部分は当然出てくるのだろうから、なんとか気持ちの折り合いをつけたい。

ただ趣味的に詠み込むというよりは、あくまでも必然性に根ざしたところで詠みたい。

それは小説にしても変わらないし、詩も同様だ。とにかく自分自身の根源から汲み上げたものでなければならないと強く思う。

 

Twitterにいることにも少々疲れを感じはじめている。

オリンピック関連のツイートが日々TLを占拠して、なんとも居心地が悪い。

何かを主張することが間違っているとは云わないけれど、声高に誰も彼もが何度も主張すればそれでいいのかと思ってしまう。

主張しない自由もあるし、あえて触れないでおくというのもひとつのスタンスなのだろうと思っている。私は私なりの考えは持っているが、少なくともネット上ではあまり言及しないようにしている。

コロナのことに関しても、少なくともこのコロナ禍の当事者ではあるけれど、あまりにもネガティブな言説で言及することをこれまで控えてきた。

なんとなく自分自身が言葉にするのも、他者の言葉として受容するのも、時勢のことに触れることに疲れている。歌誌を読んでいてもコロナ禍を詠んだ歌に行き当たるとさっさと飛ばしてしまう。

日々主人と話している間はそういうことを語ることもあるけれど、それで充分だと思っている。

議論を深める相手はそう多くなくていいし、想いをシェアする相手も限られていて構わない。ネットでまで発信する必要はないのだろうなと。

本当はTwitterから離れられればいいのだけれど、なかなかそういうわけにもいかないタイプなので、少々困っている。

もう少し気持ちを楽にする手だてを持っておいた方がいいのかもしれない。