【深夜の文章キャス】家庭内宗教論争とその後
昨夜は3時まで主人と飲んで(私は飲んでいないが)、眠気と酔いに任せた宗教論争になり、「きみはインテリだし、比較宗教学者としての立場から離れられないから、カトリックを心の底から信じきるのは難しい」と云われた。
主人は老荘思想を重んじる人間であって、カトリック信徒ではないのだけれども。
私は複雑なルーツを持つ人間で、実家はまったく信仰心が薄いのだが、なぜか仏教系の幼稚園を出て、第一志望校に落ちた結果、私立のカトリック系のミッションスクールの高校大学を出て、大学では記紀神話を専攻したという宗教ごちゃまぜの人間だから、おのずといずれからも距離を取ってしまうのかもしれないし、本当の意味で信仰を抱くことはできないのかもしれない。
そう思うとなんとも自分が情けなくなる。
カトリックに心惹かれ、帰依したいという想いがある一方で、ここ数日はずっと罪の意識が強まるばかりでどうしようもない日々を送っている。
あらゆることが罪の意識となって私を責めさいなんでいる。早く楽になりたい。
それでも聖母像や病者の守護聖人である、聖テレーズ像を横になってぼんやり仰いでいると、いくらか気持ちがなぐさめられる想いがするのだ。
それだけではいけないのだろうか。
また聖書の詩篇を再読したいし、カトリック系の出版物に触れたいと思っているのだけれど、病状が思わしくないこともあってなかなか叶わずにいる。
とにかく今の私には揺るがないアイデンティティが必要で、それをカトリックに求めることに葛藤を抱えているのはたしかなことで、人間の内心というものはそう簡単に定まらないのだなと思う。
とにかく開発と獣害と過疎化によって姿を変えてしまったふるさとから離れて、神を失ってしまった私は、もはや神道、あるいはそれ以前の民俗信仰を信じることができないのではないかと思ってしまうのだ。
大学で記紀神話を学んだことも、ある意味仇になったのかもしれないとすら思う。
学術的に神を解体していくことが、私にとっては少なからず痛みとなったことは書いておきたい。
あくまでも学術的なアプローチでしかもはや信仰を守れない自分をいたく情けなく思っていたのはたしかなことだ。東京には空はないし、山もない。
主人は人間のアイデンティティというものはそう簡単には揺らぐものではないと云うし、私も実際にはアミニズムに根ざしている部分が大きいので、神を失った喪失感に耐えられない想いの幾ばくかをカトリックによって埋めたいという気持ちがあるのかもしれない。
……ということは大真面目に書いているのだけれど、読む人によっては全く理解できないのかもしれないし、嫌悪感しか催さないのかもしれない。あるいはセンセーショナルな受け止め方をされておしまいかもしれない。
私自身も気持ちの整理をつけたいために書いているので、分からないなら分からないで全く構わない。
とある場で前世は巫女で、卒論で扱った奈良にゆかりがあると云われたことがあって、私はスピリチュアルとは絶縁してしまったけれども、それに則るならば、神道以外を選ぶ余地はないのだけれど。
こうして書いてみても、昨夜の時点でも、やはり私のアイデンティティの根幹はアニミズムにあるし、それはもうどうしようもないぐらい揺るがしようのないものなのだろう。
何度想いを巡らせても、結局のところ神道から離れられそうにない。
早急に模様替えをする必要が出てきたので、来週中に済ませたい。