私は世界とシェイクハンドできないのか?

主人がある作家の言葉を引いて、小説を書くには世界とシェイクハンドしなければならない。きみは今病気で弱っていて、世界に絶望していて、それができないと云われた。

小説を書くには絶望とともに楽観が必要で、今のきみにはそれが難しいという。

小説を書けないというドクターストップとともに、この言葉が深く心に突き刺さって、その痛みが癒えない。

私は世界とシェイクハンドできないのか?

人間不信の絶望の只中にあって、私が差し出せる手はないのだろうか?

そういうことをここ二日考えつづけている。

 

たとえば日記という場は、絶望の淵に叩き落されながらも、それでも同じ絶望を抱える人になんらかの癒しを与えることができればと思っているし、専業主婦ブログでは、持病を抱える人々とともに光を見出せればという思いで書いている。

aniron.hatenablog.com

snowrabbit21.hatenablog.jp

そういう点で、今の私にとってブログを書くことそのものが小説を書くことに比肩しうるものなのかもしれない。

ただ小説を書くにはあまりにも元気がないし、何ら希望を見出せずにいる。

それでもブログを書くときと同じ境地に立って小説を書くことは不可能ではないのだろうし、それは自分の痛みや絶望を掘り下げるということでもあるけれど、それでもなお光を希求するという姿勢があってはじめて形になるのだろうと思う。

 

そうはいっても日々絶望に打ちひしがれて短歌を詠み、詩を書いていると、しばらくはこのままでいいのかもしれないとも思う。

先日twitterのフォロワーさんのツイートで気になった、藤宮若菜『まばたきで消えていく』を読んだ。

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百合と呼ぶにはあまりにもリアルで、ひりつくような死への挽歌としての短歌がずらりと並ぶ。

喪ってしまったものへの哀傷として、その昇華の形としての短歌があることに、私は救いを見出した想いがした。

おそらくこの先も何度となくこの本を読み返すのだろうと思う。

眠れない夜に、絶望の只中にあるときに、同じ地獄に立ってくれるものを今は切実に求めている。

そういう創作の形として短歌があるのなら、私ももっと励んで短歌を詠んでいきたいと強く思う。 アンナ・カヴァンにしてもそうだけれど、こうした絶望の必然性の塊のような作品に今は惹かれる。 

evie-11.hatenablog.com

そうして詩歌を作って、その先に何があるのか、今は見えない。

投稿をしたいと思っているけれど、結果はそう簡単には出ないだろうと思っている。

それでも今の私にはもはや詩歌しか残されてはいないのだ。小説の片手間に耽美的な詩歌を作っていた頃とは、その切実さがまるで異なっている。

創作の動機が切実であればあるほど、作品の魂が強靭となることを私はひたすらに信じているから、せめてその想いのいくばくかでも形にできるように励んでいきたい。