詩歌棚、ふたたび
本棚を整理して、ふたたび近代詩歌の棚を設けることができた。
これまで設けていた詩歌の棚を合わせると、近現代詩歌がそこそこ揃う。
現代詩歌ももちろんいいのだけれど、私の根幹を作っているのはやはり近代詩歌だから、今後とも大切に読んでいきたい。
先日、Twitter経由でお迎えするに至った石倉和香子編訳『リルケ詩集』を再読した。
病みつかれて再読。
“わたしはこの生を 事物のうえに描かれる
拡がりゆく輪のなかで 生きている
最後の輪を 描き遂げることはかなわぬだろう
それでも 試みをつづけてゆく ”
──リルケ「輪」石倉和香子編訳
という箇所が心に残った。
自分と創作という問題に関連づけて読んだとき、その切実さはいっそう光を増した気がする。
私もまた創作上の試みをつづけていきたいと願っている。たとえ輪を描くことそのものに拒まれてしまったとしても。
改めて近代詩歌が根ざしていた、いや、近代という時代が有していた自我の問題に触れ直さずにはいられない。
必然性に則った上で生まれてきたものたちを私は愛したい。
それは宮沢賢治「永訣の朝」にしてもそうだし、高村光太郎『智恵子抄』にしてもそうだけれど、どうしても書かずにはいられないという内的な必然性の上に拠ってはじめて文学は生まれてくるのだということをここのところ強く思う。
近代詩歌にはそうした要素が濃縮されているだろうし、今後とも学びを深めていきたい。
特に最近気になっているのが正岡子規で、療養短歌を詠むのであればまず真っ先に触れなければならないことは論を待たない。
子規の徹底した写実性を私はこれまで遠ざけてきた部分があったのだけれど、今はむしろ写実に拠らねば生まれ得ない切実さがあるのだと考えている。
私の詠む短歌もだんだん写実的なものへと変化しつつある。
それはまた折本という形で公開できればと思っているが、ひとまず選歌まであと10首、日々励んでいきたい。