【深夜の文章キャス】ゴシックと私の創作について

以下の文章は日記として書くつもりでいたのだけれど、創作という点で重要なターニングポイントとなる出来事があったので、こちらに深夜の文章キャスとしてお送りする。

 

主人が帰ってきて夕食を作ってくれて、ルピシアダージリン1stフラッシュ2021とともに、買ってきてくれたオールドファッションをいただいた。

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 それから角川短歌7月号が届いたので、ひとまず応募規定の4首を選びたい。

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ここまで150首詠んできたけれど、そのうちで投稿できるものはおのずと限られてくる。昨日選歌をして、ひとまず5首に絞ったのでさらに絞りたい。

さらに日々詠みためていかねばと思う。50首詠んで選び抜いたものは5首なので、ひと月にやはり100首は詠みたい。量をこなしていきたい。

併せて昨夜『短歌研究』7月号と、藤宮若菜『まばたきで消えていく』を購入した。

 こちらも届いたらさっそく読みたいし、短歌研究に投稿するための短歌も詠まねばならない。また新たな50首、100首を作っていきたい。

 

それから先月購入した唐戸信嘉『ゴシックの解剖』を読み進めた。

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 カウンターカルチャーとしてのゴシックと、カトリックや保守思想との親和性も決して乖離するものではないゴシックカルチャーについて、古典的な英文学を通じて語られている。

吸血鬼や人工生命といったところまで読み進めて、自分自身の創作と比した時に、病める心身に根ざした創作をつづけるということが、近代以降失われた人間の身体性への回帰という文脈で捉えられることが分かったことは収穫だった。

さらに人工生命に類するものは私は書いていないけれど、考えてみればAIが登場する散文を書いていたこともあったし、現代に対するカウンターとしての創作の原動力は常に私の中にあって、ゴシックというものに類すると明白に定義づけることはできるのではないかと思う。

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ゴシックを自称するということがなんだか面映く感じられていたし、そのような表面的な理解で把握され消費されるということに対して強い抵抗感を感じていたのも事実だけれども、様式としてのゴシックに回収される部分は間違いなくあるのだと再確認した。

また現代のゴシックが死への恐怖というものをおおよそ遠ざけてしまっていることに著者は問題意識を投げかけているけれど、日々希死念慮に苛まれつづける私にとって、死の恐怖は常に隣り合わせで存在する。

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そういう点でもやはりゴシックという定義は私の創作に少なからず当てはまるのだろう。

 

長らく耽美という言葉を掲げてきたけれど、この手あかにまみれたインスタントな言葉にもそろそろ疲れてきた。

耽美とは様式のことだけれども、その範囲は極めて狭く、なおかつ思想の強い軸も現代においては持ち得ない。どこか一般市民が見かけ騙しの貴族趣味的に消費し尽くすもので俗悪なニュアンスすら伴っている。

あくまでも大量に生産され、大量に消費される記号に過ぎない。

その点ゴシックには既存文化へのカウンターというより切実な動機があり、単なる趣味では終わらせられない。

そのファイティングポーズを重んじたいし、私も創作をつづけるからにはかくありたいと思う。