【深夜の文章キャス】卵生の痛み
昨夜、突発的に死にたくなってきたので詩を書いた。
越えられない夜を越すために、どうしても私には詩が必要なのだと思う。
たとえ拙い言葉であっても、この混沌とした絶望感をどうにか吐き出さなくては、夜は越えられない。
そうして生まれた夜の詩たちが、今私を生かしている。
たとえたったひとりでも、私自身の言葉だけは私の傍にあると信じたい。
エゴイズムだと云われればそれまでなのだけれど、そうして必然性に駆られて書いた詩の数々が、他の人の元へと届けばいいなと願っている。
エッセイ「わたしの暴力リテラシー」
— 最果タヒ(Tahi Saihate) (@tt_ss) 2021年7月4日
ちくま7月号に載ってます(電子もあるよ) pic.twitter.com/yARuuwyXmK
さっそくkindleで注文して読んだ。
私は暴力的な人間だ、と常々思っている。人の輪の中に入れないし、そのおかげでさまざまな困難を味わってきた。ゼミの先生に「もう少しなじめないんですか?」と云われたのを未だに覚えている。
そういうことを延々と繰り返しているから、歌会にも入れそうにない。おそらく面倒なことになってしまう。先だっても気づかぬうちに嫉妬されて、面倒さが勝って詩歌サークルを抜けたばかりだ。
知らず知らずのうちに、好むと好まざるとのうちに闘争に巻きこまれ、嫉妬され、あるいは空気を読めずに徹底的に批判をしてしまい、手痛い失敗をこうむってきた。人と和して、群れを作って平穏無事に生きていくことができない。
それは強さではないだろう。ただ単に生きるのが下手すぎるだけだ。
強ければそれでいいのだろうかとも思う。強さは時に人を傷つける。
そうではない強さを今は求めている。さまざまな心の病気に打ち勝つ精神的な強さ、妬まれてもなお毅然として創作をつづけるだけの強さが欲しい。
しかし強いという言葉には、どうしても弱いものを否定するというはたらきがある。弱さを克服することは私には一生できそうにないし、弱いままではいけないのかとも考える。
弱いままで生きていく。自ら体を損なうことなく、生き延びることだけが唯一私に残された至上命題で、これを果たしつづける限りは私は私でいられる。それだけではいけないのだろうか。
詩を書くことも、その弱い自分を下支えする糧となっている。糧がやがて暴力装置へと変わるとき、私の詩は詩でなくなるのかもしれない。
執筆BGMは「沙耶の唄」だった。
当時リアルタイムでプレイしたのがなつかしい。
またプレイしたら印象が変わりそうなのだけれど、あいにくとwindowsはアップデートさせてしまったし、もうなかなかプレイできそうにない。