【深夜の文章キャス】30歳という転換点
なんとなく手持ち無沙汰で、というのは嘘で、精神的に参ってしまうことが立て続けに起きているので、自分を鼓舞するために書きたい。
小説を書けなくなって久しく、プロット案を某所に提出したのだけれど、反応は芳しくなく、その反応を受け止めるだけの心の余裕がないし、そもそも今の私は小説を書きたいのだろうかと問うた時に、答えは否としか云えない。
弱っているさなかにあって私の友でありつづけたのは、ただ詩を置いて他にはなかったし、短歌も詠みはじめて日々自分を癒すよりどころとなっている。
『夜と霧』を書いたフランクルと、それを解説する諸富祥彦は次のように述べている。
ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的転回が問題なのであると云えよう。すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。
(『夜と霧』霜山徳爾訳、みすず書房、183頁)
(…)
人間の原点は「人生から問われている者」であるところにある──したがって、人間にできること、しなくてはいけないことは、人生のさまざまな状況に直面しながら、その都度その都度、状況から発せられてくる「問い」に全力で応えていくことである。その状況にひそんでいる真の「意味」を発見し、それに全力で応えていくことである。そして、そうすることで自分の人生に与えられている「使命(ミッション)」をまっとうすることにある、フランクルは言うのです。
──諸富祥彦『NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧』pp56-58
私にとって今人生から問われているのは、いかにして生き延びるべきかという一点に尽きる。死ぬことはあまりにもたやすいし、何としてでも生きねばならない。
これは創作に関しても変わらない。小説を書くことが困難である以上、これにあまり固執するあまり心身をすり減らしてもしょうがないのではないか。
プロ作家になりたいという夢は未だに持っているけれど、現実問題として能力云々以前に体や心がそれに堪えうる状況ではない。
そう考えると創作を糧に生き延びることが第一で、そのよりどころとなるものは、私にとって小説ではなく、十年書きつづけてきた詩であり、あるいは近年はじめた短歌であったと云う他ない。
小説を書けなくなってからしばらくの間はとても悩んだけれども、もうそろそろ答えを出してもいいのかもしれない。
30歳という年齢を考えても、ここが転換点だと思えば次に向かっていける。
何度でも 何度でも 立ち上がれ
諦めなければ 終わりは 始まりへ変わる
と歌うフランシュシュのように、たとえPTSDになったからといって創作から離れたくはないし、矢尽き弓折れても創作をつづけていたい。
そろそろ次の夢に向かってもいいのではないだろうか。
それはプロの作家を目指すというよりも平凡な夢かもしれないし、KDPで歌集を編むとか、詩集を作るとか、目標の次元としては低いものなのかもしれない。
それでもいずれ投稿を志すことになるかもしれないし、まだまだ未来という時間の可能性を信じていたい。