【深夜の文章キャス】孤独と創作と
今日はほぼTwitterから離れて過ごした。いくつか投稿はしたけれど、TLを追うことはしていない。
ブログ記事を日記を含めて4本書いて、やはりブログの方が好きだなぁという想いを新たにする。
PTSDの再燃や、それにまつわる人々のことなどが頭から離れずにいて、どうしてもTwitterにいるとストレスを感じてしまうことも大きい。
ひとまず身内垢は解体して、ひとり専用アカウントにしたのだけれど、そうしたところやはり落ち着いたので、私にはどうしても孤独が必要なのだという想いを新たにする。
孤独というものを私は愛している。
少なくとも作歌という点において私は孤独な環境で短歌を詠みつづけてきたし、これからもその姿勢を変えるつもりはない。
たとえ誰に読まれなくとも、私は短歌を詠みつづけたい。
ひとりで歌に向き合うから生まれてくるものもあるのだと信じている。
短歌が私にとって切実なものであるために、孤独がどうしても必要なのだろうと思う。
それは短歌だけでなく、小説や詩でも同じことが云えるのかもしれない。
ネットに公開して評価を得ることを良しとする風潮は未だ根強いけれど、インスタントに評価されて即時的に消費されることに疲れているのもまたたしかなのだ。
アンティークの品などを手元に迎えると、こうして百年という時間を経てきたものの重みを実感する。
今日、フランスのアンティークショップから聖テレーズ像の胸像が届いたのだった。
私の作品はそこまで長い年月を経て受け継がれていくことはないけれど、それでも時間というものの持つ意味の重さを改めて考えずにはいられない。
アンティークショップのあるフランスから遠く離れた日本で、病弱な人間が引きこもっている部屋にこの聖テレーズの胸像が飾られていることを思うと、途方もない人間の旅に想いを馳せてしまう。
そうしてできるだけ時間を丁重に扱うことの大切さを村上春樹は説いてきた。
時間を丁重に扱うということは、とりもなおさず自分の作品をできるだけ丁寧に扱うということになるのかもしれない。
以前少し関わりのあった人に「カクヨムはあなたの作品にはふさわしくない。第二の山尾悠子になってください」と云われたことがあった。
その時にはそれでもカクヨムという場がなければ、私は作品を遠くに届けることはできないと思ったのだけれど、彼女の言葉は私の作品の核心を突いているのかもしれない。
私はあまりにも自分の作品をないがしろにしてきたのかもしれない。
そう考えると、やはり電書にするなり、同人誌にするなり、きちんとまとまった形で届けたいという想いが強くなる。
たとえ少部数でもいいから紙の本にしたいという想いは未だにある。
もう少し自分の創作と真摯に向き合って、ネットの喧噪から離れたところで創作活動をつづけていくべきなのかもしれない。
より多くの人に届けることは大事だけれども、それでも私の作るような創作物は、ごく限られた人に届けられれば十分なのかもしれない。
少なくとも短歌に関してはその姿勢が今の私を支えているので、他の創作物がそうあってはいけないという法はない。
とにかく何者かにならねばならないという圧力が四方八方からかかりつづけていて、その軋轢の中でさまざまな人に嫉妬されてきた。その競争から今は降りたい。こちらは競うつもりがなくても、いつの間にか一方的にライバル視をされることにも疲れ果てている。
私はただ私の作品を作りたいだけなのだ。
そういう一個人の創作者としての私と、読者とを細い線がつないでいればそれで十分だという気もする。
ネットに創作物をUPしはじめてから十年以上になるが、この間でネットの風潮も大きく変わってきたし、そろそろ静かなところで創作活動をしていきたい。