失敗したけれど、見えてきたものもある
現在30歳、来年で31歳になります。
昨秋から公募に盛んに投稿するようになって、とあることがきっかけで小説が書けなくなってしまい、それきり未だに書けずにいます。
体調上の理由や、自分の書くべきものがわからなくなってしまったこともあって、この間は本当につらい想いをしましたし、未だに小説が書けずにいることに忸怩たる想いを抱いていることはたしかです。
それでもこの間に「私」物語化計画の講義に触れたり、一日二本のペースで主人とさまざまなアニメを観てきて、自分なりにの物語の構造や仕組みについて考える機会が何かと多かったです。
そこで、ああこれまで書いてきたものは、メカニカルな小説とは縁遠いものだったのだなと気づきました。
そういう点では「私」物語化計画に加入できて本当に良かったと思いますし、自分自身を見つめ直す良い機会になりました。
それに、いったん立ち止まらずに突っ走っていたら、こういうことには気づけていなかったでしょうし、自分自身の小説ときちんと向き合うこともできていなかっただろうなと感じます。
そういう意味ではこのブランクは決して無意味ではなかったなと今は思っています。
20代後半〜30歳という時期に、こうした停滞と失敗を経験できたことは、今後の人生においても意義があることなのではないかなと感じます。
『20代のうちにしておきたい17のこと』でも「失敗すること」が挙げられていたと記憶しています。
私は友人も少なく、師と呼べる人もあまりいませんが、だからこそ自分の人生を自分自身で導いていかねばならないのだと痛感しています。
この失敗を経て得たものは確実に糧になると感じますし、それはバーチャルな世界では決して得られないものです。
自分自身が行動してその結果失敗をして、そこからさまざまな学びを得たということは、今後につなげていくという意味でも意義があったことだと思います。
Twitterの場などではブランクや失敗を良しとしない風潮がありますが、一時的にではあれど、この間にその喧噪から一歩引いたところにいたことは有意義だったのかもしれません。
今はTwitterに戻っていますが、それでも前よりもいくらか視点が変わったなと感じます。趣味的に、あるいは記号的に物事を判断したり、あるいは語ったりするのはできるだけ控えようという気持ちになっています。
また自分にできる範囲で目一杯創作に励んだことも、少なからず糧になりました。
詩を書いたり、短歌を詠んでいるうちに、自分自身の必然性や、物語と対峙する切実さを問われる場面が多くて、そういう作品に数多く触れられたのも良い励みになりました。
詩歌にとって写実こそが必然に他ならないのだとしたら、その必然性は小説にも敷衍できるはずだなと思います。
そういう点でジャンルを問わず、さまざまな詩歌に触れられたことは良い勉強になりました。
今は必然性の塊のような小説を書きたいという想いが頭をもたげています。
それがいつ書けるかはわかりませんが、詩歌を作りながら、その時期を待ちたいと思います。