2021.06.24 赤尾兜子全句集を読む

図書館で予約していた赤尾兜子全句集を借りてきた。

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『稚年記』『蛇』のみ読了。
特に『稚年記』の「雪影裡」がとても好みだった。


ものなべて枯るゝ月夜を逝くべきか
凍て昏れぬ貝に思ひ出つきねども
靈菊に夜半の光塵(ひかり)の鱗の如
白藤やその一房に虻澄めり
白菊の崩れぬ髪を梳きしとき
衣(きぬ)は喪の月のひかりに濡るゝ女(ひと)
雪霏々と姫の白無垢とけやせむ
戀愛混沌眸に凍蝶の揺れやまず
身ごもりし女流眄(ながしめ)に螢籠
蘭の香や玻璃に舞妓の緋くれなゐ
萩桔梗またまぼろしの行方かな
蔦茂り今宵魔術の店ひらく


兜子の句では比較的わかりやすい。全体に充満する死の影は、戦争や周囲の人々を悼む想いもあってのことだと把握した。前衛を志した背後には、切実な死へのおののきと憧憬がない混ぜになって存在していたのだろう。

 

『虚像』は持っているので、ひとまず古書価が高い『蛇』を読めればいいかなと思ったのだが、『稚年記』がとても良かった。

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兜子の句は難解で、前衛芸術を志すという強い気持ちの表れが前面に伝わってくるのだけれど、同時に近しい人々との死別を悼んだり、自ら出征するにあたって死を間近に感じていたのであろうことが伝わってきて、彼の句から死の気配が強くただよってくるのにも、必然性があったのだと思い至った。

やがて彼は自裁を遂げるが、死の影は生涯彼から離れることはなかったのだろうと思う。

それを美的なものとして捉えるばかりでは本質は見えてこないし、虚構としての言葉だけで詩が成り立っているわけではないということを、ここのところ強く意識するようになった。

たとえ現実から離れたところで詩歌を作るにせよ、そこに必然性が伴っていなければ力を失ってしまう。

私が文学作品に著者の強い動機を求めるのは、それこそが作品の魂を作ると思っているからだ。

ここのところ療養文学に触れることが多いのも、そうした必然性を否応もなく伴わざるを得ない状況を病というものが作り出すからで、私自身もそうした切実さをもって創作に臨みたいと考えている。

それが小説であれ、詩歌であれ、魂なき文芸作品に価値はないと断言する。

 

そうして読み進めているうちに、『歳華集』に寄せた大岡信赤尾兜子の世界」に行き当たったのだが、これがとても良かった。

創作で弱っていたところに巡り会えたことに感謝したい。

ある一人の人間には実現できる方法が、他人にはついに実現不可能である場合の方が圧倒的に多いのであって、なぜかといえば、その方法の発見者にはあった精神の渇きのある特殊な形が、他の追随者には、少なくとも同じ形のものとしては、ないからである。それがおそらく、自然科学の方法と、詩の方法の本質的なちがいを生んでいるものであろう。
──大岡信赤尾兜子の世界」

 「精神の渇き」というのはまさに創作に対峙する当事者としての必然性のことなのだろうと思う。

evie-11.hatenablog.com

詳細はこちらの記事に書いたが、私の作風に感化された複数人の創作に、その「精神の渇き」はあったのだろうか。

私には知る由もないが、とにかく覚悟を持って前に進まねばならない。

 

それから主人とこの本を図書館で借りたことの意義について話した。

先人の司書がこうして価値ある本を書庫に収めてくれたからこそ、私は今こうして古書では入手困難な稀覯本を手にしている。

それは主人の云うようにいわば目利きであり、私の住んでいる地域の図書館の書庫には名だたる人々の詩歌集が収められている。

改めて司書という仕事の偉大さを感じるとともに、心から感謝したい。

またそうして書庫から本を借りて読む楽しみもまた格別なものがある。

今後とも図書館に通ってさまざまな詩歌集に触れたいと願っている。