【深夜の文章キャス】轟音のみを友とする/病者の文学

轟音のみを友とする

すべての神経が信号を発する苛立ちが、あらゆる尺度の絶望が、轢死という無惨な死への渇仰が癒される時を求め、あるいは恩寵の手が伸べられるのを待ちつづけて三十年が過ぎ、この間幾人ものたましいのふたごたちと生を共にし、やがて必然性を伴って引き裂かれる痛みを分かち合ってきた。いや、およそ痛みというものを感じつづけるには無謬の不信が必要で、その純度をできるだけ保たねばならない。音楽が奏でる轟音のみを友とし、完璧無比にありとあらゆるものを破壊する雷雨を待ちつづけねばならない。発雷確率を信じよと命じる。気象庁の予報がことごとく外れる失望とあきらめと、わずかばかりの期待を、延々と百年の間繰り返すことだけを望んでいるのかもしれない。曇りの日がつかの間の安息日となる。いずれにせよ雷雨は来ず、豪雨のみがわずかばかりの間に降りしきる中、聴覚を完膚抜きまでに破壊する工事がはじまろうとするのを、なすすべもなく待ち受けることしかできない。

 

Dark Steering/Squarepusherを聴きながら

kakuyomu.jp

youtu.be

Dark Steering

Dark Steering

  • provided courtesy of iTunes

music.apple.com

死にたくないなぁと毎日独り言を云いながら生きています。

朝からけたたましい工事音に苛まれて聴覚過敏で死ぬし、PTSDの症状で身動きも取れないし、スーパーもATMも遠いし、洗い物のお皿はどんどん溜まってゆくし、冷蔵庫にはなにもない。

あ、これ詰むなと思ってもどうしようもない。

仕方ないので日中はあざらしのぬいぐるみを抱いて眠っていました。

そういうことを日々短歌に詠んだり詩に書いたりしています。いくらか脚色と飛躍は詩歌である以上必要ですが、それが今の私のリアルなのだからしょうがない。

フォロワーさんとお話していて、アンナ・カヴァンにとっては『アサイラム・ピース』そのものが現実なのだという話になりました。

 SFという文脈で語られたり、幻想文学として語られることの多い彼女の作品を本当の意味で読めるのは、我々のように心を病んだ人間だけなのかもしれません。

そして最近は高村光太郎智恵子抄』、梅地和子『鬱の壺』、赤尾兜子『虚像』、伊藤計劃伊藤計劃記録』と、病者や彼等に直接関わる文学を手に取る機会が増えつつあります。

f:id:evie-11:20210617172600j:plain

f:id:evie-11:20210617172537j:plain

f:id:evie-11:20210620111407j:plain

f:id:evie-11:20210623230712j:plain

そうして病める人間の書くものに触れることで、病者自身が癒されていくのはまぎれもない事実で、そうした文学を扱ったエッセイ集をいつか編めたらいいなぁと感じるようになりました。

特にアニメなどのフィクションで何よりつらいのは、病者が病者として出てこないことにあって、「至って健康な若い男女の物語」「健康な男女の完璧な家族愛や、無欠の恋愛で完結している物語」に入っていけないなと感じることが多々あります。

そういう点で「ひぐらしのなく頃に」はやはり私にとっては特別な作品なのですが。

f:id:evie-11:20210607232732j:plain

f:id:evie-11:20201227171545j:plain

f:id:evie-11:20201227171513j:plain

病者が病者としての身体や心を持って声を発することは、そうたやすいことではありません。

しかしそれでも声を上げようとするなら、そこには当事者としての自覚と、他者への配慮と覚悟が必要で、そのいずれをもすべてクリアできるかと云われると、正直自信がありません。

それでも当事者として声を上げつづけなければ、「至って健康な男女向きの社会」に押しつぶされてしまいそうになります。

療養短歌も、あるいは療養文学としての詩も、どこまで評価されるものなのかは分かりません。

評価されること云々にあまり価値を置きたくないので、捨て置かれたとしても構わないのですが、それでも声を上げつづけなければならないのだと強く思います。