届いた本と詩歌のこと
短歌を詠んでいて、自分がタナトスを強く意識していることから、それをより掘り下げたく思って注文したのだった。
ちなみにリテラリーゴシック・イン・ジャパンのうち、いくらかは既読なのだが、こうして一冊の本としてまとまった形でゴシックカルチャーを概観できるのはやはりうれしい。
先日フォロワーさんとスペースでお話させていただいて、『藤原月彦全句集』の話になった。
私の俳句は彼の影響をあまりにも受けすぎてしまっているので、そこから何とか脱して自分のオリジナリティを確立したいと思っている。
また金井美恵子『兎』はかつて図書館で借りて読み、金井美恵子作品の中でも特に好きで、いずれぜひ本を買いたいと思っている。
小川洋子「老婆J」は小川作品の中でもこれまた特に好きな一編で、『寡黙な死骸みだらな弔い』に収録されている。
小川作品だと「森の奥で燃えるもの」が一番好きで、こちらは『刺繍する少女』に収録されている。ルシール・アザリロヴィック監督作品「エコール」を彷彿とさせる世界観が魅力の短編だ。
また横溝正史「かいやぐら物語」は『蔵の中・鬼火』に収録されていて、こちらも私が好きな短編集だ。
私はこの作品集の中では、美少年が化粧をしたり着飾ったりする描写が倒錯的な、表題作の「蔵の中」が好きなのだけれど、「かいやぐら物語」もまさに死者が登場するゴスと評していい作品になっている。再読する途中で置いてしまっているので、またいずれ紐解きたい。
孤独にうちひしがれて夜に怯えている今、まさに読むべくして出会った詩集だった。夜の静寂と孤独がこの一冊に結実し、静かに語りかけてくれる。日香里さんの幻想的な挿絵が見事にマッチして、宝物にしたいような素敵な詩集だった。
リルケの詩はこれまで触れたことがなかったけれど、できればまとまった形で読みたいと強く思った。
届いたその日に読み終えた。
リルケの詩には疎かったのだけれど、その古典的で美しい詩情は魅力が尽きないと感じた。
また調べてみると古井由吉もリルケを訳しているらしく、こちらもいずれ手に入れたいところだが、ぼやぼやしていると講談社文芸文庫は絶版になってしまうので、できれば早めに手元に迎えたい。
ブックオフから届いたもの。
皆川博子の二作品はもう何度も読み返していて、いい加減買った方が良いなと思って手元に迎えた。『妖恋』は電子書籍で持っているが、やはり皆川作品は紙で持っておきたい。
塚本邦雄編集『香』はエッセイのアンソロジーで、Twitterのフォロワーさんがツイートしていたのをきっかけに手に取った。
塚本邦雄のエッセイは何本か読んだことがあったけれども、編纂したエッセイのアンソロジーに触れるのはこれが初めてだ。
塚本邦雄らしい美意識が行き渡ったアンソロジーだと思うので、今から読むのが楽しみだ。
以下の三冊は小説の執筆のために買ったもの。
本来はこちらを優先すべきなのだが、いかんせん快楽読書主義なので、読みたい本をどんどん買ってしまう。
桜木紫乃は主人に借りた『氷平線』があまりにも珠玉の名作ぞろいだったので、まず間違いないだろうと思って買った。
主人が貸してくれると云っていたのだが、我が家は本当に気に入った本はそれぞれ買う主義だし、小説を書くために読むのならば買わなければ話にならない。
山田詠美『蝶々の纏足・風葬の教室』はいじめがテーマということで、私にとってはなかなか鬼門なのだが、小説でいじめをテーマを扱うのなら読まねばなるまいということで買った。頼むから『聲の形』の話はしないでほしい。
藤原龍一郎『赤尾兜子の百句』を読んで、赤尾がうつを患い、最期は自裁を遂げたと知って、句集を買わねばと思い立ち、比較的廉価だった『虚像』を買った。
藤原龍一郎『赤尾兜子の百句』を読んで原典に触れたいと思って読んだ。署名本を迎えることができたことが何よりうれしい。
死の香りが強く漂う俳句の数々は、私が仰ぐ詩人の詩を彷彿とさせて、無性に泣きたくなった。
前衛俳句でありながらも、そこにはたしかな俳人の息づかいを感じる。兜子という人が切実さを持って死を想っていたこと、それが言語芸術としての俳句に昇華されていることが見事で、これまでに読んだ句集の中でもひときわ異彩を放っている。
できれば『蛇』もいずれ入手して読みたい。
またここのところ療養短歌をテーマに短歌を詠んでいるので、参考までにうつ病の闘病のさなかに詠まれた歌集『鬱の壺』を買った。
あくまでも写実に根ざした療養短歌で、その切実な響きが強く胸を打つ。こんな風に直截な表現で怒りや悲しみを謳い上げるには勇気が必要で、私にその勇気はないなとつくづく思った。精神福祉関係者の友人にも勧めたい一冊。
療養短歌・療養俳句に必要なのは写実性に他ならなくて、その写実性と真正面から向き合う覚悟と素直さがどうしても必要不可欠なのだろうと思う。それは自分自身の弱い部分と向き合う強さに他ならないから。そして私にその強さはない。
好みだとか好みでないとかという範疇で自分の志すものを語ってもしょうがないし、読むものの範囲を狭めてもどうしようもない。
とにかく読むにも詠むにも量をこなす必要があるし、あらゆる読書体験は私の糧となってくれるから、写実主義だろうと前衛主義だろうと読んで学ぶべきものを学ぶしかない。
塚本邦雄も前衛短歌を掲げてはいたけれど、斎藤茂吉に深く私淑していたと聞く。
それは上に載せた『詩歌博物誌』を読んでも明らかで、 私自身は斎藤茂吉の短歌にはほとんど触れられていないけれど、そうした多面性と深い教養があればこそ前衛を志せるのだろうと思う。
すっかり長くなってしまったので、ひとまずここまでにしておく。