【深夜の文章キャス】「果たされぬ殉教」と病める苦しみ
希死念慮が高まっていて、アーバンギャルドを久しぶりに聴きながら詩を書いた。
都市夫が死ぬことにしたはLIVEバージョンが好きで、てまきゅんの本領発揮といった感が強い。
アーバンギャルドとは、11年前に詩人がカラオケで歌っていたのをきっかけに聴くようになって、それ以来ずっと好きだ。
戸川純との対バンにも足を運んだことがあり、アーバンギャルドのライブをこの目で体感できたことは本当に幸せだった。
さて詩の方に少し触れておくと、多くの言葉を尽くす必要はないと思うのだけれど、300首詠みためてきた短歌の集大成といった感が強い。
キリスト教との葛藤はミッションスクール時代から根強く抱いてきたものだけれども、それは未だに解消されることなく心の中にわだかまっている。
いっそ改宗できれば気が楽になるのだろうけれど、私のアニミズムを奉じるアイデンティティがそれを許してくれない。
アニミズムは私を救ってくれるわけではないけれど、病んでいるという事象とそのままの形で肯定してくれると思っていて、だから自分自身と分ちがたいものとなっているのだろうと思う。
「ひぐらしのなく頃」にの竜宮レナはそれを象徴する存在で、だから彼女のタペストリーを飾っている。いわば私の信仰の証だと云っていい。
病める私を決して救うことなく、そのまま肯定してくれるものを私は切実に求めているのかもしれない。
その象徴としての竜宮レナをこれからも愛していきたい。
それでも時折耐えかねて、熱がぶり返したようにキリスト教を求めてしまうこともある。
そういう時には聖書を読み、キリスト教関連書籍を紐解くのだけれど、シモーヌ・ヴェイユを読んでいると、到底この境地には達することができないという想いを新たにする。
それでもヴェイユの言葉を読んでいると、うつに効果があるという重い毛布のようにずしりと言葉がのしかかってくるのを感じて安心感に包まれる。
中でも苦しみについて語る箇所はどれも心に響いてくる。
精神の領域において、想像上のものと実在的なものをいかにして区別するのか。想像上の楽園よりも実在の地獄のほうを選ばねばならない。——シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』「幻想」13、岩波書店、2017年、102ページ。
他者がわれわれに加える悪を、われわれ自身がおこなった悪にたいする治療薬として受けいれなければならない。ほかに治療薬はない。だれからも危害を加えられぬのなら、われわれが赦されることもあるまい。
自身に加える苦しみではなく外部からこうむる苦しみが真の治療薬である。なかんずく苦しみは不当でなければならない。不当な行為によって罪をおかした以上、正当に苦しむだけでは充分でなく、不当に苦しまなければならぬい。——シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』悪19岩波書店、2017年、p134-135
断末魔の苦悶は究極の暗夜であって、完徳の域にある人びとでさえ、絶対的な純粋さに達するのにこれを必要とする。ゆえに断末魔は苦渋にみちているのが望ましい。
存在は、完全かつ純粋に苦渋にみちた苦悩を味わったのちに、完全で純粋な歓びの炸裂のうちに消えさる。
——シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』悪28、岩波書店、2017年、p138。
わたしは自身の苦しみを愛さねばならない。有益だからではなく、そこに在るからだ。——シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』不幸2、岩波書店、2017年、p145。
苦しみを苦しみとして味わうことそのものに意義があるのだと、ヴェイユの言葉を詠んでいると思わずにはいられない。
この希死念慮に苛まれる日々にも味わうべき苦しみはあり、その苦しみがあればこそ見える光もあるのかもしれないと思っている。