【深夜の文章キャス】「果たされぬ殉教」と病める苦しみ

果たされぬ殉教

眠りたくないと云う私に背を向けてきみが出て行ってから一晩が経ち、ヒュプノスによって恩寵として授けられた過眠という祝福に浴したのちに副作用としての希死念慮に苛まれ、昼も夜もなく永遠に暗い部屋には人形だけが敬虔な信徒として眠りつづける。睡魔から逃れるように白くかすむ目をこすって、充血した瞳がいつしか見えなくなったなら、きみの顔も忘れてしまう。輪郭のひとつひとつを覚えているうちに絵にとどめても、フランス人のようなきみの面立ちは記憶の中でどんどん溶けてゆく。あらゆる芸術は詩を残して滅びる。虚空に伸ばした私の手はにべもなく振り払われて、聖母は与り知らぬ顔をして両手を伸べるけれど、異教徒は蛇のようにたやすく踏みにじられる。可憐に咲く百合の花を私も捧げたかった、純白のベールをかぶり、ロザリオをたぐって祈りの言葉を唱えて、聖歌を歌って苛烈な運命に殉じて死にたかった、許されたかった、救われたかった。呪われた異教徒の血が体の奥深くを流れている。門は硬く閉ざされ、ヒュプノスを奉じ、詩神を仰ぎ、自己というもののあやふやさを罪として担いながら、きみの言葉をかなぐり捨てて今日も夜明けすぎまで死の影に囚われている。

 

都市夫は死ぬことにした/アーバンギャルド を聴きながら

 

希死念慮が高まっていて、アーバンギャルドを久しぶりに聴きながら詩を書いた。

music.apple.com

都市夫が死ぬことにしたはLIVEバージョンが好きで、てまきゅんの本領発揮といった感が強い。

youtu.be

アーバンギャルドとは、11年前に詩人がカラオケで歌っていたのをきっかけに聴くようになって、それ以来ずっと好きだ。

戸川純との対バンにも足を運んだことがあり、アーバンギャルドのライブをこの目で体感できたことは本当に幸せだった。

 

さて詩の方に少し触れておくと、多くの言葉を尽くす必要はないと思うのだけれど、300首詠みためてきた短歌の集大成といった感が強い。

キリスト教との葛藤はミッションスクール時代から根強く抱いてきたものだけれども、それは未だに解消されることなく心の中にわだかまっている。

いっそ改宗できれば気が楽になるのだろうけれど、私のアニミズムを奉じるアイデンティティがそれを許してくれない。

アニミズムは私を救ってくれるわけではないけれど、病んでいるという事象とそのままの形で肯定してくれると思っていて、だから自分自身と分ちがたいものとなっているのだろうと思う。

ひぐらしのなく頃」にの竜宮レナはそれを象徴する存在で、だから彼女のタペストリーを飾っている。いわば私の信仰の証だと云っていい。

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病める私を決して救うことなく、そのまま肯定してくれるものを私は切実に求めているのかもしれない。

その象徴としての竜宮レナをこれからも愛していきたい。

 

それでも時折耐えかねて、熱がぶり返したようにキリスト教を求めてしまうこともある。

そういう時には聖書を読み、キリスト教関連書籍を紐解くのだけれど、シモーヌ・ヴェイユを読んでいると、到底この境地には達することができないという想いを新たにする。

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 それでもヴェイユの言葉を読んでいると、うつに効果があるという重い毛布のようにずしりと言葉がのしかかってくるのを感じて安心感に包まれる。

中でも苦しみについて語る箇所はどれも心に響いてくる。

精神の領域において、想像上のものと実在的なものをいかにして区別するのか。想像上の楽園よりも実在の地獄のほうを選ばねばならない。——シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』「幻想」13、岩波書店、2017年、102ページ。

 

他者がわれわれに加える悪を、われわれ自身がおこなった悪にたいする治療薬として受けいれなければならない。ほかに治療薬はない。だれからも危害を加えられぬのなら、われわれが赦されることもあるまい。
自身に加える苦しみではなく外部からこうむる苦しみが真の治療薬である。なかんずく苦しみは不当でなければならない。不当な行為によって罪をおかした以上、正当に苦しむだけでは充分でなく、不当に苦しまなければならぬい。——シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』悪19岩波書店、2017年、p134-135

 

断末魔の苦悶は究極の暗夜であって、完徳の域にある人びとでさえ、絶対的な純粋さに達するのにこれを必要とする。ゆえに断末魔は苦渋にみちているのが望ましい。
存在は、完全かつ純粋に苦渋にみちた苦悩を味わったのちに、完全で純粋な歓びの炸裂のうちに消えさる。
——シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』悪28、岩波書店、2017年、p138。

 

わたしは自身の苦しみを愛さねばならない。有益だからではなく、そこに在るからだ。——シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』不幸2、岩波書店、2017年、p145。

苦しみを苦しみとして味わうことそのものに意義があるのだと、ヴェイユの言葉を詠んでいると思わずにはいられない。

この希死念慮に苛まれる日々にも味わうべき苦しみはあり、その苦しみがあればこそ見える光もあるのかもしれないと思っている。