【散文詩】「多神教の巫女」と文学と
昨夜は4時まで眠れずに詩を書いた。
そしてあらゆる文芸作品において必要な「必然性」というものについてぼんやりと考えていた。
必然性を伴わない作品が私はどうにも好きになれないし、逆に必然性に満ちた文芸作品はどんなジャンルのものであれ好きだ。
たとえば伊藤計劃『虐殺器官』『ハーモニー』、村田沙耶香『コンビニ人間』、アンナ・カヴァン『アサイラム・ピース』、古くは高村光太郎『智恵子抄』、宮沢賢治「よだかの星」など。
そうした切実な想いがあってこそはじめて成り立つ文学があり、あるいは達することのできる境地があるのだと思っている。
昨夜「耽美主義からエモーションへ」という記事を書いたけれど、このエモーションへの転換は、自分の内的な必然性への追求という点でも、一定の功を奏したと考えている。
写実というのはある意味必然性そのもので、そこに根ざしながら幻視を求めなければ、屋台骨のない建物のようにもろく崩れ去ってしまう。
自分自身の作風の変化に対して、今までは引け目に感じることもあったし、これでは固定ファンの方々も離れてしまうのではないかという恐れもあった。
それでも新たな道を模索しつづけて、ひとつの答えを見出しつつあると云っていいのではないかと思うし、それは私にとってほぼ自分の力で道を切り開いた成果だと云えるのかもしれない。
内容について少し触れておくと、主人が雨の言葉に関する辞典を買ったというので、モティーフとして使った。
ここのところ言葉に対する興味がとても高まっていて、言語SF風の詩を書くことが増えてきた。
言葉を発することそのものや、言葉を扱うという行為に少なからずフェティシズムと問題意識を抱えていることの表れなのだろうなと思う。
言語SFにはまだまだ疎いので、引き続き円城塔や、金井美恵子といった作家の作品に触れて、自分の糧としていきたい。
また金井美恵子作品にはさまざまな影響を受けてきた。
特に『兎』『金井美恵子詩集』は白眉と云って良い作品で、『兎』は図書館で借りて読んだきりなので、ぜひ手元に欲しい。
『金井美恵子詩集』の散文詩の数々には少なからず影響を受けた。
詩を書きはじめた当初から、作風はさまざまに変化したけれど、今一度読み返して自分の立ち位置を改めて見つめ直すきっかけとしたい。
さらにその後継に位置する朝吹真理子の作品にも魅せられつづけている。
中でもドゥマゴ文学賞を受賞した『流跡』が好みで、幻想文学とも散文詩ともつかない一作になっている。
『きことわ』『TIMELESS』と、一貫して時間の問題を描きつづけてきた作家でもあるので、詩を書くにあたっても、その手法に学ぶところは何かと大きいのではないかと思う。
また彼女の父・朝吹亮二の詩集もさらに読みたい。
現代詩文庫の『朝吹亮二詩集』を読んだきりになっているので、できればこちらの二冊も手元に欲しい。
また古書価が高騰していてなかなか買えないが『Opus』には本当に魅せられた。
朝吹亮二が希代の詩人であることは論をまたないけれど、また彼の作品に触れてその言葉の迷宮の世界に迷い込みたい。
こうしてさまざまな文学に触れながら、より自分の作風を高めていければと心から願っている。そのためにも日々読書に励みたい。