短歌の選歌をした雑感
小説のプロットを練りながらも変わらずに短歌を詠みつづけていて、やはりどうしても投稿をしたい。
まだ素人の手遊びだけども、それでも目標は高みにある方が頑張れるタイプなので、できるだけ高く掲げておきたい。
もし結果が出なくても、KDPとして歌集を編むという方針に変わりはないし、せっかく出会った短歌を詠む喜びをそう簡単に手放せないなと思い至った。
今月の5月13日から毎日3〜8首ペースで短歌を詠んできて、50首弱になり、そろそろいったん選歌をしようと思い立った。
結果的に47首中17首が残った。もう少し厳しく選んだ方がいいのかもしれないけれど、今後とも選歌を繰り返してふるいにかけるつもりでいる。
何より短歌を選んでみて、自分の詠みたい歌風や方向性がより明確になったという収穫があった。
もともと療養俳句の金字塔・石田波郷の『惜命』に多大な影響を受けて、療養短歌を詠むつもりでいたのだが、心の病ということもあってか恋歌も何かと多い。
恋歌は短歌にとって欠かせない要素だろうし、私自身にとっても切っても切り離せないものなので、療養短歌と恋歌というふたつの柱で最終的に50首を揃えようと思っている。
それまでに300首をなんとか詠み揃えて、その過程で50首ごとに選歌をするというのが良さそうだ。
選歌してみると、耽美主義から離れていても、やはり美を志向せずにはいられないのだなと気づく。あくまでも日々の想いや景物を詠んでみても、それでも美を求めている節がある。
考えてみれば私が現代小説を書けない背景にもこの耽美フィルターとでも云うべきものがあったからなのだし、私の見ている現実は他の人が見ているものとはかなり隔たりがあるのかもしれない。
心の目というものは十人十色だから、同じものを詠んでも決して重なったりはしないのだろう。だからこそ写実の意義がある。
どのみち美に跪拝することから逃れられるわけはないと分かっていたから、口語で詠むにせよ、日常を詠むにせよ、その根幹は揺るがしようがないのだと思う。
それがどこまで通用するのかはわからないけれど、ただひとつだけ云えることがあるとすれば、私は私の詠むものを信じるしかないということだ。
そのためにもさまざまな短歌に触れておきたい。
今の私の短歌のベースを作っているのは、確実に松野志保の短歌で、その影響は少し大きすぎる。もっとさまざまな短歌を読んで学ぶ必要がある。
そのためにも歌集をどんどん買って読みたい。
手はじめに買ったこの本も読まねばならないし、積んでいる佐藤弓生『モーヴ色のあめふる』も崩したい。また同歌人の『世界が海におおわれるまで』も再読したいし、気になる歌集は他にもいくつもある。
図書館も活用しつつ、引き続き短歌を詠みながら学んでいきたい。
深夜にどうしてもいてもたってもいられなくて、文京区コラボの歌仙兼定クリアファイルを額縁に入れて飾った。
安価だった記憶はあるが、デザインはなかなか瀟洒な額なので歌仙に似合う。
その後ろには佳作をいただいた時の短歌の賞状が入っている。
縁起を担ぐというよりは、短歌を詠みつづけたいという意思を忘れずにいるためのお守りとして飾ることにした。
ジャンルを離れてからは追っていないが、歌仙兼定の数あるイラストの中でも、やはり私はこのイラストが好きだ。表情がとても美しいし、極より通常ver.の正装が好きなのだ。
当時親友とこの原画を観て、椿山荘でコラボではないアフタヌーンティーをしたことを未だに覚えている。
親友とは創作の話は全くしないけども、このクリアファイルを飾ると当時のことを懐かしく思い出せるし、いろんな形で私に力を与えてくれそうだ。