2021.05.17 短歌を詠むのがひたすら楽しい
勢いでとある賞に応募すると決めて、短歌を毎日詠んでいる。
応募規定は50首なので、300首ぐらいは欲しい。じっくりと厳選したいし、とにかく量をこなさなくてはならない。
そうした義務感に駆られて短歌を詠みはじめたのだけれど、歌集を読み、作歌していると、だんだんと短歌の魅力が分かってきた。
私は俳句を詠む方が好きだと思ってきたけれど、適性は確実に短歌の方があるのだろう。恋歌を詠むのがひたすら楽しい。叶わなかった恋ばかり詠んでいる。
もともと療養短歌として編むつもりなので、詠むのはもっぱら身の回りのことが多い。
以前はそうした写実的な詩歌を遠ざけてしまう節があったのだけれど、現実に目を向けてみても、私というフィルターを通じて出力される歌はどこか現実離れしていて、そのギャップがめっぽう面白い。
もともと現代小説を書くことを苦手としていたのも、このフィルターに起因していたのだけれども、それが短歌という形を取ると思いのほか活かせることに気づいて、不全感がいくらか解消されつつある。
療養短歌のつもりで詠みはじめたけども、家からほとんど出ない生活を送っているので、日々詠むもののバリエーションはどうしても少なくなる。別に病院で暮らしているわけでもないし、目新しい出来事があるわけでもない。毎日ほぼ変わらない日々を送っている。
それでも心のありようというものは日々変化していて、詠むものの毛色も日によって少しずつ変わっていく。それもまた面白い。純粋な驚きと発見が毎日を彩ってくれるのもうれしい。
Twitterにいた時には、ただ評価されるためだけに、あるいは自分の趣味嗜好だけを求めて詩歌を作ることが多かったけれども、Twitterから離れてその評価軸や自分の偏った狭い趣味から解放されたのだと感じている。
たとえ賞に応募して結果が出なかったとしても、こうして短歌を詠む純粋な喜びに触れられたことは得難い宝物だし、おそらく賞にかすりもしないだろうけれど、50首が揃って落選していたらKDPとして歌集を作りたいと思っている。
詩集だって作ったのだ。歌集を作ったっていい。
もちろん結果が出ればうれしいけれど、出なかったとしても全く無意味ではないという実感を得つつあることが単純に喜ばしい。
いずれは結社の門を叩けるといいなと願っているけれど、それが叶わなかったとしても、これからも日々短歌を詠みつづけたい。日々の糧として短歌が傍にある生活は、他では得られない喜びを与えてくれる。