泥水を啜ってでも這い上がりたい
GW期間中は裏世界ピクニックを観ていた。
今ひとつハマれずにいるのだけれど、もっと怖いものに触れたくなって、積んでいた坂東眞砂子『狗神』を読み返すことにした。
ホラーを読んでいると、描かれる人間関係はいずれも救いがなく露悪的ですらある。
狗神に描かれるヒロイン・美希を取り巻く相関図も決して明るいとは云えない。
土俗的な家族関係や親戚関係の不仲に加えて、男女関係も歪なものとなっている。
ホラーにつきものの怪異現象はむしろおまけのようなもので、物語の屋台骨を構築するのはあくまでも人間同士のネガティブな関係図だ。そこが徹底しているところが好ましい。
人間関係におおよそ希望を見出せず、PTSDによる著しい人間不信と恐怖に陥ってSNS全般から遠ざかり、友人との葛藤や、実家との間にさまざまな相克を抱えている私にとって、ホラーに描かれる人間関係は縁遠いものではなく、むしろ近しいものだと感じる。
憎しみ、不仲、嫌悪感や齟齬といった人間関係の負の部分が惜しげもなく披露されるので、シンパシーを感じずにはいられない。ホラーの良いところはそれを徹底して負の方向に掘り下げるところであって、多くの場合救いは描かれない。そこがまた良い。
以前『絶望名言』について何度か書いた。いわばホラーそのものが絶望名言としての性格を持っているのだと強く感じる。
物語そのものが絶望に根ざしていて、その救済は安易には与えてもらえない。その重低音のダークアンビエントような世界にいる間はいくらか気が休まる。
そうした切実さをもってホラーと向き合うということを、私はこれまでできていなかったし、生来恐がりなこともあって、ホラーは避けてきた。
プロ作家からホラーを書くことを勧められた時にも腑に落ちなかった部分もあって、自分の中でそれをうまく消化し昇華できずに小説を書けなくなってしまった。
しかし絶望の只中にあるから見える光もあるのかもしれない。それは希望と呼ぶにはあまりにも暗いのかもしれないけれど。
Twitterから離れて、より切実な気持ちをもって物語と向き合うことが少しずつできるようになってきた。
思い返せば幼少期はそうした児童書に親しんでいたのだし、20代の10年間をSNSに費やしたことは本当にもったいなかったと思っている。
30代になり、10代20代の頃よりも物語を消化するスピードは遅くなってはいるけれど、それ以上に物語を理解する解像度は上がっていると肌で感じる。
持病の悪化もあり、今すぐには小説を書くことは難しいかもしれないが、それでも泥水を啜ってでも這い上がりたい。そのためならば手段を選ばない。
Twitterから離れる他なかったのも、PTSDでやむにやまれずという側面が強いので、どうしてこんなに理不尽な目に遭いつづけねばならないのだとも思うけども、それでも生きられる場所で生きていくしかない。
村上春樹が『職業としての小説家』の中で、次のようなことを書いていた。
僕はそんなネガティブな出来事に遭遇するたびに、そこに関わってくる人々の様子や言動を子細に観察することを心がけました。どうせ困った目にあわなくちゃならないのなら、そこからなにか役に立ちそうなものを拾い上げていこうじゃないかと(「何はともあれ元は取らなくちゃ」ということですね)。そのときはもちろんそれなりに傷ついたり落ち込んだりしましたが、そういう体験は小説家である僕にとって少なからず滋養に満ちたものであったと、今では感じています。もちろん素敵なこと、楽しいことだってけっこうあったはずなんですが、今でもよく覚えているのはなぜか、どちらかといえばネガティブな体験の方です。思い出して楽しいことよりは、むしろあまり思い出したくないことの方をよく思い出します。結局のところ、そういうものごとからの方が、学ぶべきことは多かったということになるのかもしれませんね。
──村上春樹『職業としての小説家』スイッチ・パブリッシング、2015年、pp222-223
このあまり恵まれない状況を糧にできるのかどうか、今はあまり自信がない。
ただホラーともう一度向き合うために、この二進も三進もいかない絶望は必要なものなのかもしれない。そうして生み出されたものがどこまで人の心に届くのかは分からないけれど、日々鬱々とした日記を書いていて、多くの評価をいただいていることを鑑みると、困難な状況のさなかにある人はきっと大勢いらっしゃるのだろうと思う。
そういう人々に宛ててホラー小説を書くということなら、力及ばずながらも私にもできるのかもしれない。