PTSD再燃からの再起と、精神の自由の象徴としての読書
PTSD再燃の原因となったSNSから離れて
SNSでの複数のネットストーカー被害が発端となってPTSDが再燃し、SNSになんとか戻れないものかと考えていたのですが、「そもそもSNSをする必要があるのだろうか?」という考えに至りました。
この背景にはPTSDだけではなく、人間関係の悩みなど、さまざまな出来事があったのですが、昨日ふと思い立って新刊・古書のチェックリストをオフラインのテキストエディタで作り、そこから古書を注文したところ、SNSを介さなくても欲しい本が選べるのだという当たり前の事実に気づけたことが大きいです。
注文した書籍は、また別途記事で紹介したいと思います。
読書と孤独が与えてくれたもの
読書=精神の自由のために行うもの
これまではPTSD再燃の発端となった読書メーターに依存して本を探すことが多くて、完全に人の影響化から離れて読書をするということが少なかったように思います。
Twitterをやっていた時期はさらにその傾向が顕著で、気になるフォロワーさんの読了ツイートや書影ツイートが気になって本を選ぶということもありました。
しかし読書というものは本来精神の自由のために行うものであって、そこに他人が介在する余地はあまりないのだということに気づきました。
私が愛するキャラクターを鑑みても、伊藤計劃『ハーモニー』の御冷ミァハも、吉田秋生『BANANA FISH』のアッシュ・リンクスも精神の自由を求めて書物を紐解いていたわけです。
性的な虐待という非常につらい過去を背負い、困難な状況にあるふたりにとって、書物は自由の象徴に他ならなかったのだろうと確信しています。
そして私もPTSDの発端となった、性的なトラウマ体験という両者に近しい体験を味わい、さまざまな病を抱えながら、それでもなお自由を求めたいという気持ちに昨日ようやく気づいたのでした。
私自身はそこまで自由を渇仰している自覚はありませんでしたし、持病で思うように外出ができなくなってからも、半ばあきらめの境地で、その状況を受け入れるしかないと思っていました。
それでも心は間違いなく何の束縛もない時間や空間を求めていたのです。
その自由を与えてくれるものはただふたつあって、ひとつは孤独、そしてもうひとつは書物に他なりません。
精神の自由を与えてくれた孤独
人間不信のさなかに頼った相談窓口
孤独に関してはこの間何冊か本を読んだのですが、一番大きかったのはやはりPTSDの再燃で人間不信に苛まれたことでした。
実家も医師も友人も十分に頼れないという状況の中で、頼りになったのは公的な相談窓口と日記、それから他ならぬ自分自身だけです。
相談窓口はこちらの二カ所を利用させていただきました。
www.fukushihoken.metro.tokyo.lg.jp
ちなみにNHKのハートネットTVの特設サイトでも各種の相談窓口を案内していますので、ご参照ください。
特に東京都のLINE相談窓口に関しては、たびたび相談させていただいたことで何とかつらい気持ちを逃がすことができました。
この場をお借りして改めてお礼申し上げます。
孤独と向き合いつづけた日記
結果的にSNSから距離を置いてことで、PTSDの再燃はある程度落ち着いてきましたが、この間日記がなければ死を選んでいたかもしれません。
たとえ人を信じられなくても生きていていいんだ、と日記を書いているうちに気づけたことは大きな力になりました。
なによりも読者の皆様の評価が日々の励みになりました。
こちらも併せてお礼申し上げます。
そうしてひとりで孤独と向き合ううちに、強い絶望感や自己嫌悪、自責の念を突きつけられることも多く、大変苦しい想いをしました。
それでもまた同時にこの孤独がなければ決してPTSDの再燃という絶望の淵から這い上がることはできなかっただろうと思います。
リアルの人間関係の中で誰かにすがりついていたら共倒れになっていたかもしれませんし、そもそも実家は毒親、医師はドクハラ、友人にはメンタルのことを相談できないという詰んだ状況で頼れる人はいませんでした。
精神の自由を与えてくれた読書体験
また以前記事にも書いたように、電子書籍は確実に私の命を救いました。
精神的に弱っているのに眠れない深夜に何冊か注文して読みましたが、それらの電子書籍がなければ命を絶っていたかもしれません。
特に『NHKラジオ深夜便 絶望名言』シリーズには救われました。
引用等の詳細は日記に書いています。
また何度も再読している、諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』は間違いなく私の糧となっています。
「何があっても自分は自分自身の味方でいること」や「孤独を深めることでしか孤独は癒されない」という言葉はまさに金言だと思います。
弱者に寄り添う言葉の数々に心なぐさめられること請け合いです。
20年前に発行された古い本ではありますが、今読んでもその内容は決して古びることはないと断言できます。
さらに電子書籍で買って読んだ茂木健一郎『孤独になると結果が出せる』も勇気づけられました。
弱っているときにはこのぐらいライトで、なおかつ孤独であることを励ましてくれる本が力になります。
この本を読んで、持病で作家という夢は断たれてしまったけれど、それでもなおエッセイ同人誌を作るという新たな目標を掲げ直そうと、改めて決意するに至ることができました。
またたとえSNSという場から離れてしまっても、まったく失望するには値しないということも本は教えてくれました。
『デジタル・ミニマリスト』や『スマホ脳』、それから先んじて2016年の時点でネット断ちの重要性を説いた、池上彰・佐藤優両氏による『僕たちが毎日やっている最強の読み方』などは読んでいて良かったなと思える本です。
文学というよりも実用書ばかりが並びましたが、Twitterにいた頃はこうしたジャンルの本を軽視する傾向が私自身も周囲も強かったように思います。
しかし弱っていて物語を自分の中に取り込む元気がなくても、何らかの形で本を読みたいと強く思うとき、こうした本は少なからず支えになってくれます。
文学を読めなくて自分を責めてしまうこともありましたが、それでもどんなものであれ読んだ本がまったく無駄になることはありませんし、現にこうして下支えしてもらって今があります。
おわりに
最近はふたたび詩歌をよく読むようになりました。
そうして自分の興味の赴くままにさまざまな本と付き合いながら、自分自身の成長につなげていきたいと思います。
自分の思うままに本を選び、本を読む。
これ以上幸せなことはありません。
思い返してみれば10代の頃の私はそうして本を選ぶことが当たり前でした。
人に本を勧められることもありましたが、多くは自分自身の物差しで本を選び、さまざまな失敗を経ながらも、かけがえのない体験をできたと思いますし、それが今につながっています。
20代になり、読書メーターやTwitterをはじめて、いつしか人の目が気になってばかりいるようになってしまい、書店に足を運んでは「フォロワーさんが好きそうな本だな」と思って手に取ることも少なくありませんでした。
しかしそれは本来読書が持っている自由の精神とはかけ離れたものだと感じます。
今後とも誰かの基準や誰かの目線ではなく、自分自身の精神の自由を高く掲げて読書に励んでいきたいです。