自己受容と物語の役割
ここのところ精神的に多大なダメージを追っていて、何度も死が頭をよぎった。
その経緯はこちらのブログに日々綴っているので多くは語らない。
しかし結局のところ、どんなにダメな自分でも受け入れられるのは自分自身を置いて他にないのだ。
人間不信でも、精神的かつ無意識的に人を誑かしてばかりいることに負い目や深い罪悪感を感じていても、それを受け入れることでしか前に進めない。
誰も信じられなくても、少なくとも自分だけは信じていないと生きていけないということがよくわかった。
そして自分を信じられれば、いずれ他の誰かを信じられる日が来るかもしれない。別に一向に来なくてもいいし、人間不信のまま生きていく権利も人間にはあるけれど。
自分の過去のすべてを否定したくなる夜もあるし、自分のあらゆる性質に難癖をつけたくなることもあるけれど、それでもたとえ少々歪な形であってもどうしようもない自分を受け入れるしかないのだろう。
その心強い媒介者となってくれるのが物語で、だからこそ私は切実に没入できる物語を求めている。人間が物語を必要とする根源的な動機も、おそらくここにあるのではないだろうか。
物語の中に自分の姿を見出すとき、ようやく自分があらゆる束縛や不自由さから解き放たれたような想いに至る。
今の私にとってその作品はBANANA FISHに他ならないと断言できる。
しかしあらゆる物語の中に自分を見出すことはできるのだ。たとえ自分とかけ離れた境遇にある人物であったとしても、物語を読んでいる間は、彼あるいは彼女と不可分な存在として物語の中を旅することができる。
その精神の自由への解放感は他のものでは味わえない。
たとえ漫画であってもアニメであっても、物語という点では小説と変わらない。
だからこそ私は日々2話ペースでアニメを観るし、月に20冊ほど本を読む。
そうして物語の中で自分の根源的で原初的な姿と出会い、彼あるいは彼女が物語という旅を終えるとき、はじめて私は私を赦せるのだ。