俳句と古典を読むこと

低気圧と寝不足と口腔内にできた不穏な代物が気になってしまい、一日ダウンしていた。

15時ごろから身体を起こしていられないほど苦しくなってきたのでやむなく床に臥せる。

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何気なく寝返りを打った先に、造花と生花、フランスのアンティークの聖母像と、オルゴールなどが並んだ窓辺が目に入った。

もともと私は俳句を詠むときにはこうして調子を崩して寝込んでいるときに詠むということが多かったので、この景色を詠みたいと思って作句した。

作句したものはもう少し寝かせて、角川俳句に投稿するか考えたい。

まだまだ写生の俳句ははじめたばかりで拙いので、投稿できるような代物ではないのかもしれないが、俳句というものが本来写生に拠って立つ以上は、模索をしながらいろんなものを試みたい。

詠んでみると、病で参っていることもあってか、いつもよりもたをやめぶりな句風になった。これは耽美主義を掲げる俳句ではなかなかできないことでもあるし、その変化がまた面白い。

 

こういう時にとっさに詠むのはやはり俳句で、短歌はなかなか指先から出てこない。

以前、知人に雨伽は短歌向きだと思うと評されたことがあったが、必ずしもそうとは云えないと思っている。俳句には俳句の妙味があり、楽しみがある。

何よりわずか十七字で完結するミニマムな世界は、短歌ではなかなか味わえない。三十一文字が冗長だと思うこともたびたびある。

僭越ながら、素人ながらに漢詩に少々親しんでいた時期もあり、俳句の根底をなす漢語との相性は、短歌の和語を基軸とする文化よりも近しいものを感じる。

むろん和語の美しさ、すばらしさは云うまでもないが、どちらが良いと云いたいのではなく、谷崎の云うところの源氏物語派に私は必ずしも属さないのだろうと思っている。

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

 

 漢語を好んで使うことを、谷崎は良しとしなかったし、私自身もその姿勢に肯んじるところはあるが、かといって漢語には漢語の美があると思っている。

季語の多くは漢語で成り立っているが、このおよそ数文字の漢語の美は、なかなか他の形態の文芸作品では味わえない。

四年以来、未だ温めている作品には、ぜひとも登場人物の名前に季語を使いたいと思っている。それも日の目を見るにはまだずいぶんかかるだろうが、そうしたあこがれが私を文芸へとかき立てる。

evie-11.hatenablog.com

 

この漢語へのあこがれの原点となる漢詩も、まだまだ読まねばならないと思い立つきっかけを下さった方がいた。

読書メーターで以前からフォローさせていただいていた方で、源氏物語や古典詩歌に親しんでおられる方なのだが、ここのところ漢詩にもご興味を持っておられるらしく、さまざまな本を読んでいらっしゃる。

私も唐詩選を読み止しのまま放っていたことなどを思い出し、いても立ってもいられない気持ちになった。

やはり古典詩歌に触れなければ、本来の意味で句作や作歌、詩作をすることはできないのだろうと思う。たとえ現代詩歌がそれらとはまったくかけ離れたところにあったとしても。

もう一度きちんと古典と向き合うためにも、覚悟を持って読書に臨んでいきたい。