吟行を楽しみたい
器の整理をして選び直したいと主人に話を持ちかけたところ、吉祥寺に行って器巡りをしたいと提案してくれたので、今週末にも行くことになりそうだ。
先日小平霊園へ行って帰宅して俳句を詠んだのがなかなか楽しかったので、今度の吉祥寺でも試してみたい。
先日の吟行で作ったポストカードはこちら。
画像はサンプルで、下記リンク先より無料DLしていただけるので、ご興味のある方はご覧になっていただきたい。
しかし小平と吉祥寺だと、また違った作風になるかもしれないし、持ち味のダークメルヘンな雰囲気をどこまで醸し出せるかは分からないが、骨董品店にも立ち寄って、ぜひいろんな品物を拝見してみたい。
生来出不精で、うつを患ってからはいよいよ出るのが億劫になってしまっているのだが、吟行のためと思えば少しは外に出る気も湧いてこようというものだ。
俳句の吟行に関しては、むしろコロナ前からもっと早くにやっておけば良かった、と思うのだが、コロナ禍の真っただ中だからこそ、外に出て感じたことを詠む楽しさというのがひとしおに感じられるのかもしれない。
もともと俳句は自宅で寝込んでいるときに、無聊をなぐさめるために作っていたので、外に出て感じたことを詠むという発想に乏しかったのだろう。
写生を重んじる作風からは少し距離を置いておきたいという個人的な信条もあり、抵抗があったということも挙げられる。
しかし先日朝吹真理子『だいちょうことばめぐり』を読んで、そう頑なにならなくてもいいのかもしれないと思い至った。
「季語を探す」というエッセイの中には、朝吹真理子が詩人の吉増剛造の呼びかけで俳人らと連れ立って吟行をする様子が描かれている。
朝吹真理子の俳句を引いておく。
常磐一丁目2の白梅咲く
くちづたえで知ったさくらもちは季語
春浅しマダガスカルの蚕玉
普段から俳句を詠む人ではないし、詩人を父に持つとはいえ、作家なのだから致し方ないとは思うのだが、幾分か拙いと感じる。
この吟行の様子は中継で某所のスクリーンに映し出されていたらしい。
巧拙はともかくとして、吟行という行為にこの本であこがれを持ったのは間違いないのだし、作中でいろいろと感じるところはあったものの、この本に巡り会えて良かったと思っている。
また実際に吟行をしてみて、句風が大きく変わるのかと思いきや、決してそうではないということもほんの少し自信になった。
もともと吟行らしき遊びは散文詩の方では何度かしていたことがあって、多摩動物公園へ行った時にもダークメルヘンな詩ができ上がっていたから、私の観ている世界は幾分おかしいのかもしれない。
観る人によって世界は全く違うものに映るということが、吟行の何よりの楽しみであり、味わいなのだということに気づく。
写生というものをいくらか軽んじていた私にとって、これは新たな発見だった。
たとえ人と出かけて、同一のものを観ていたとしても、個々人の認識そのものが差異を生み、詩歌の体をなすというのは、ある意味仏教の唯識論など、哲学的な領域にも足を踏み入れることになるのだろうが、浅学の身ではあまり語れることがないので、これぐらいにしておく。