すべて白紙にして、それでも書きたいものを探す

ひぐらしのなく頃に(旧作)の漫画を読み、まどマギを観て、その上で何を書くべきなのだろうと考える。

このふたつの作品が私の心の琴線に触れたのは、やはり絶望を描きながらも最後には救済がもたらされるという普遍的なストーリー展開が心を動かしたからなのだろうと思う。

ループ系ということでも両者は一致していて、梨花ちゃんは雛見沢のすべてを、ほむらちゃんはまどかちゃんを救うためにループを繰り返すけれども、それは私にとってさほど重要ではないし、あくまでも物語のひとつの型として円環があるのであって、それ以上のものではない。

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もちろんそこに切実さは生まれるし、物語を動かしていく強い動機が生まれるということに変わりはないけれど、やはりどうしてもメタ要素が入ってきてしまう。

そうしたメタ要素を私は物語に取り入れる気はないし、今となっては使い古された型だというのはよくわかるので、今さらそれを自分の作品に反映させるつもりはない。

 

ただ強い動機を持ったキャラクターが、絶望にうちひしがれながらも救済を目指すという両者に共通するストーリーが、この上もなく私の心を打ったし、まどマギラスト三話は滂沱の涙を流しながら観ていた。

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魂の救済を一貫して物語に求めてきた私にとって、まどマギの最終話は心の底からすべてが赦されたという気持ちになったし、私が書きたいものは、ジャンルはなんであれ、結局人が赦される物語ということになるのだろうと思う。

そのバリエーションのひとつとしてファンタジーがあり、あるいはホラーがあるけれど、それは外側のことで、本質的に書きたいものの軸というものがブレなければ、何を書こうと勧められても、大丈夫なのだと強く諭された気がした。

 

自分の書いてきた作品を振り返ったとき、そういえばループ系かつ、絶望の中から救済を求めた作品があったということを思い出す。

当時はまだ上記二作品には触れていなかったのだが。

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それがこの民俗学と神話学をベースに組み立てた掌編「瑠璃神話」で、先日プロ作家の先生にも送らせていただいた。

この物語は望まない婚礼が間近に迫った娘が村を捨てて、とある神とともに生きる道を選ぶという筋立てになっている。

評価のほどはまだいただいていないのだけれども、ループは抜きにしても、結局私が書きたい物語はこの作品に集約されていくのではないかと考えている。

先生にもホラー小説を書くなら、この作品をベースにしたいということをメールに書いてお送りした。

 

しかしこの作品に限らず、物語の大きな型は私の書くものにだいたい共通していて、絶望の中から救済を求めるということに限って云えば、「all the good girls go to hell」はまさにそうした内容の小説だった。

この小説は江戸時代を舞台に、ふしだらな生活を送る地獄絵師の娘として生きる少女が、亡き母に焦がれて、やがて光を見出すというあらすじになっている。

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この作品はプロ作家の先生にも推薦していただいたことは前にも書いた。

 

その上で、リメイクを勧められた「望月すみれに近寄ってはいけない」を振り返ってみると、やはり絶望は描けていても、救済の形を掘り下げることができていなかったなと感じる。

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これまでリライトをしたいと思いながらも、その具体的な方向性をなかなか定められずにいたのだが、「人間が人間によって救われる話を書きたい」という大きな物語の軸を把握できたことで、さらに構成を練り直す良い機会になったと感じている。

それを踏まえた上で、絶望を描き、そして救済の形を模索することが、私がもっとも力を入れるべきことなのだと、ようやく分かった。

 

とにかく春までは創作を休むと決めているので、しばらくは我慢の日々が続くし、作家の夢は諦めざるを得ないかもしれないけれど、それでも私は物語を書いていたい。

さまざまに思い悩んだ末に、それでも足掻いて物語に触れて、方向性をきちんと見定められたということは少なからず大きな糧になったと感じている。

苦しい日々がつづいて、筆を折らざるを得ないと何度も思ったが、その果てに希望を見出せたという体験は、私にとって得難い財産になるだろう。

物語を書く動機だけは、強く強く自分の心の中に持っておかねばならない。

その力の強さだけが物語を編み出していく北極星の光となってくれる。

 

私はこれまでに自分の物語と向き合うということは、ひたすら自分の書いたものを掘り下げていくということだと思っていたのだけれど、実際のところ大きく寄与したのは、むしろ自分の外側の作品にどんどん触れていくということだった。

それもジャンルを問わず、媒体を問わず、なんでもいいから物語を自分の中に通過させていくということだ。

ものを書いていく上では至極基本的なことではあるけれども、その基本的なことがなかなかできていなかったのだということを改めて実感した。

考えてみればひぐらしまどマギも、履修しようと決めたのは主人ではなく私だったし、今後とも自発的な形で物語を取り込みながら、自分の作品と向き合っていきたい。