2020.01.14 コロナ禍の図書館について

ここ一週間ほどでうつ状態が急激に悪化してしまい、昨日は自己判断で薬を元のレベルに戻すことにして、今日をなんとか生き延びた。

それだけでもありがたいことだと思う。

病気のことについては別ブログに譲るので詳細は語らないけれど、今回ばかりはさすがに肝が冷えた。

ひとまず増薬によって病状は安定し、睡眠も十分に取れてほっとしている。

今日はできるだけスローペースに過ごそうと思って、日中は別ブログを含めて、ブログ記事を何本か仕込んだ。

 

それからはたと図書館の予約本の受け取り期限が今日だったのを思い出して、時計を見ると16時半になろうとしていた。図書館の閉館時間は17時。徒歩15分程度かかるので、今すぐにしたくせねばと手近にあった服に着替えて外へ出かけた。

この緊急事態宣言下で図書館に行っていいものなのか、だいぶ迷って主人にも相談したのだが、「自分が不要不急の用事でないと思うのならいいんじゃない」と背中を押された。

専業主婦ということもあり、また200冊の本を読むと年初に決めたこともあって、図書館を利用するということは私にとって必要不可欠なのだし、図書館に行かないということは知識を得るということにとって大きな損失になりうる。

 

またそれだけではなく、図書館は幼少期から私の大事なアジールでもあって、このエッセイを読んでもらった友人には「雨伽さんにとっては家だったのですね」と評してもらったこともある。

kakuyomu.jp

そういう環境にいると、自分が普段読むものの幅の狭さや、書く小説の小ささを思い知る。世の中にはこんなにたくさんの本がある、とごく当たり前のことを思わずにはいられない。

 図書館という場所に立ったとき、私はそれまで偏っていた姿勢が整えられるのを感じるのだ。

 どの本を読んでもかまわない、どの本も自分のすぐ傍にある。

 そういうことを図書館はそっと語りかけてくれる。

単に節約のためとか、本を増やさないためという以上の価値を私は図書館に対して抱いているし、両親に本を買ってもらえなかった幼少期の私にとって、図書館は文字通り私を育ててくれた場所だと云っていい。

 

そうした場所はそう簡単にはなくなるものではないのかもしれないけれど、それでも図

書館の置かれた状況の厳しさは司書講習の勉強をしていた頃からよくよく分かっている。

場所はなくらなくても、コロナ禍によってサービスの内容は変更せざるを得ない状態で、家に居場所のない子供たちや若者たちにとっても、今図書館が置かれている状況は決して好ましくない。

 

私は家に居場所がなかったわけではないけれど、それでも必死にお小遣いを貯めて買ったハードカバーを本棚に置くことすら良い顔をされなかった幼少期を過ごしてきた。

成長してからも本を買うたびにこそこそ隠さなくてはならない状況が続いた。

別段怪しい本を買っていたわけではないのに、母に見咎められるのが心苦しかった。

そういう私にとって家は必ずしも私の「ホーム」ではなかったし、両親は良き理解者だとは思えなかった。

ひどい虐待を経験したというわけではないけれども、やはりどこかで親に心を許せないまま育った理由のひとつはきっとここにあるのだろう。

そういう子供にとって、図書館は唯一安心できる場所だったと云っていい。

図書館にいる間はどんな本を手に取って読むのも自由だし、知的好奇心の赴くままに本を制限いっぱいまで借りて、二週間で読み切って、また週末に図書館に行くというのが大きな喜びだった。

 

だからこの状況でも私は図書館に通いつづけたいと思う。

今回は予約本を受け取っただけですぐに図書館をあとにしたけども、いずれまたゆっくりと館内を見て回ったり、資料のコピーを取れるようになったら、そのときはじっくり図書館での時間を堪能したい。

 

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また今回はどうしても行かねばならない理由があった。

古書価格が高騰している鷲巣繁男句集『石胎』が書庫に眠っていることを知って予約していたのだ。

調べてみると鷲巣繁男の詩集なども複数書庫に収められているらしく、順に読んでいきたい。

やはりこうした本を手に取れるというところにも図書館の大きな価値があると思う。

図書館とは万人に開かれた知の拠点であり、公共の福祉を実現するためになくてはならない存在であり、上のエッセイにも書いたが、人類の宝の結晶だと私は信じている。