2021.01.06 大人になりきれない
かねてから気になっていたカズオ・イシグロの『夜想曲集』を途中まで読んで断念した。
どうにも私は大人になりきれていないようで、人生のほろ苦さの味わいを本当の意味で理解できていないのだろうと思う。
これまでもさまざまな出会いと別離を経験してきたつもりだけれども、それを郷愁という言葉で語ることはできても、人間関係の不和についてじっくりと手に取って達観できるほど成熟してはいないらしい。
そういうものがウェットに富んでいて、いかにも英国人らしいと云えばそれまでなのだけれど、もう少し甘い夢を見たっていいのではないかと甘ったれたことを考えてしまう。
男女の心の機微というものを本当の意味で理解していないのだろう。
作中の冒頭でうれしい出来事があったとしても裏切られ、主人公はあいまいな幻滅と失望を抱いてふたりの男女から離れてゆく。
そのやりきれなさと不協和音のすわりの悪さが、いかにも大人の味わいなのだが、それを心地いいとは私は思えない。
なんとなく昔観たコーヒー&シガレッツを思い出したのだけれど、これもふたりの人間の不和を楽しむというニュアンスが強い作品だ。
そういう皮肉めいた心のあり方はあまり私にそぐわないらしい。
郷愁というレベルまで昇華しきれない、あくまでもリアリズムに徹するタッチが、甘美な想像の余地を阻んでしまう。
思い返せば『日の名残り』もそうした作品だし、おそらくカズオ・イシグロと私の相性はあまり良くないのだろう。
同じリアリズムというと、さらに人間のネガティブな側面を徹底して突き放して書くシャーリィ・ジャクスンの方が好きだ。
そこに人間に寄せる一切の期待はなく、ただ冷徹な失望と研ぎすまされた邪悪さがあり、それが美の境地に至るまで昇華されている。
人間の負の側面を捉えながらも、それがたまらない魅力をただよわせているのは、シャーリィ・ジャクスンの小説が美という価値観に裏打ちされ、美というものの持つ残忍さと恐ろしさを良く捉えているからなのだろう。
とはいえカズオ・イシグロの作品にも美的な要素がないとは云いがたい。
風景描写などは味わい深いし、作品全体を貫く端正で洗練された筆致がすばらしいと感じる。
それでも徹底したリアリズムは読者に甘い幻想を抱く余地を許さない。
そうした幻想を極力排して人間を描こうとする強い意思を感じて、どうしても私という人間が拒絶されているように思われてしまう。
おそらくそうした拒絶感を覚えるのは、私が甘ったれた人間だからなのだろう。
私は郷愁というものに夢を見ていたいし、男女の別離にもやるせなさだけに回収しきれない、美に裏打ちされた物語を求めてしまう。
しかし美の一辺倒であればいいかというとそうではない。
たとえばタブッキのサウダージをテーマにした小説は、私の趣味とフィーリングにぴったり合うのだけれど、谷崎のレベルまで湿っぽいタッチで美化されると、ちょっとついていけない。
吉野葛は昨年久しぶりに再読して、途中で本を閉ざしてしまった。
完成された見事な小説だということは重々分かっているし、学生時代から好きな作品ではあるが、当時の私のフィーリングからやや乖離していたのだろう。
大学生の頃は谷崎作品が本当に好きだったし、今もそれは変わらないけれど、無邪気に美化してしまえるほど別離から時間が経っていないときには、どこか冷めた目で見てしまう自分がいる。そこまで情感たっぷりに湿っぽく歌い上げなくてもいいのになと。
さまざまな別離にまつわる出来事を思い出して、そのほろ苦さを噛みしめるとき、究極の美にまで祭り上げることのできない、不純物のようなものが心に残る。
それを徹底して描けばリアリズムになり、極端なまでに美に傾けば谷崎的な作品になるのだろうが、そのあわいにある私の心は、どうしても両者のいずれにもゆだねきれないのだ。
小説ならばタブッキが合うが、たとえば映画ならばウォン・カーウァイの「花様年華」のような、成熟した恋を描きながらも、あまり湿っぽくなく、それでいて人間のどうしようもない悲しみを描いた作品が好きだ。
忘却という恩恵をもたらす存在にも、変化という残酷さをもたらす存在にもなりきれる、時間という装置をつかって物語が閉じるところもこの上もなく美しい。
この絶妙なさじ加減や物語の湿度によって、私にとっての作品の合う合わないが決まるのだろうなと思う。
これは単なる好みの問題であって、どれがよりすぐれているという批評ではないという前提に立った上でのことだが、念のため思考のメモとして残しておくことにしたい。