図書館の使い方を模索する

今日、主人に付き合って図書館を再訪した。

久しく図書館に行けずじまいだったのだが、うつで出不精な私に「図書館に行って、色々と教えてほしい」と主人に諭されて、もう少し気力を振り絞ってでも、図書館に通いたいという気持ちを新たにした。

ここのところすっかり図書館から離れて、家で通販を使って本を買う日々が続いているのだが、いかんせん蔵書が増えてしまい、狭い室内では架蔵できる数にも、減らせる数にも限りがあるし、本棚に本が収まらなくなってきたので、図書館をもっと活用したいと思う。

もちろん本棚の新陳代謝を良くするという20代の方針は引き継ぎたいのだが、血気盛んな頃のようにすぐさま本を手放してしまえるだけの判断力が落ちてしまっている今、図書館を頼れる部分は頼りたいという切実な事情がある。

 

以前住んでいた地域には徒歩五分圏内に図書館があり、実家では本を買うことが実質的に認められていなかったため、独身時代はしょっちゅう通ったものだ。

kakuyomu.jp

そうした中での本との出会い、さらには図書館という場との出会いは、私の心を本当に豊かにしてくれたし、本を所有することがおおっぴらにできるようになった今、あの頃を少し懐かしく思うこともある。

 

そうしたノスタルジックな思いもある一方、より戦略的に図書館という場を活用したいという意図もある。

先だって古畑任三郎のドラマをツタヤで借りて主人と観て、「日本は本当に貧しくなってしまったのだなぁ」という実感を身にしみて感じた。

出てくるセットのひとつひとつがあの平成初期の豊かさを厭というほど感じさせて、それが今ではとても縁遠いもののように思えてならなかったのだ。

そうした実感を実感として済ませるのか、それともデータを積み上げ、論考を読んで確かなものとするのか。

そこはやはり腐っても元史学学徒というところもあり、やはり本を読まねばと思い立った。

 

かつては東大の大学院生で、今も仲間内で和本を使って論語の読書会に励む主人と話していて、かねてより知識をアップデートしなくてはいけないと考えていたということもある。

大学という場を離れて数年が経ち、これからは自分の力で学んでゆかねばならない。

それは創作にまつわることもそうだし、大学時代に専攻していた記紀神話をより深めていくことも重要だが、もっとより広い視座を持った勉強をしていかないと、これから先の時代を生き延びていけないのではないだろうか。

それぐらいこのコロナ禍という現象に対して危機感を抱いているし、日本の貧困化はますます進んでいくのだろう。

インターネットという幻想が破壊され、その粗暴な実態が明るみに出てしまった今、頼れるのはやはりオールドメディアに他ならない。

 この本のように、できれば複数の新聞を購読できれば云うことはないのだが、そこまでの余力は専業主婦にはないので、せめて普段あまり読まない政治関係の本を読もうと思い立って図書館で予約した。

身銭を切るべきだという意見ももちろん分かるが、何せ興味の赴くままにすべての本を買い尽くすことは難しい。

ならば家に置くのは創作や、それに必要な資料を中心とすることにして、その枠外のものについては図書館という知の資源を活かすということもひとつの手なのではないかと思う。

 

図書館に行くのが億劫だった学生時代に、頭に思い描いていたことがある。

それは遥か昔の人々は書物を手に入れるために多大なリソースを割いていたということだ。

私の好きな歴史上の人物で云えば、諸葛亮だって自分にとって必要な本を手に入れるために多くの苦労を要したに違いない……と想像するのだ。

書物を求めて自分の足を使って出かけるという行いは、やはり本との適切な距離を保つという意味でも大切なことなのかもしれない。 

通販のボタンひとつで本が届く利便性は何ものにも代えがたいという意見は一方であるにせよ、そうした知のために労力を割くということを忘れずにいたいと思う。