2020.11.09 高柳誠と私の詩作について
今年も冬季うつがはじまり、ずいぶんと読書ペースが落ちてきた。
ホラーを読みたいという気持ちも減退してしまって、なかなか積読本を崩せずにいる。
そもそも私自身はホラーを書くべきなのかという問いにぶつかり、ホラーを書くことに対して内心あまり快く思っていないということが改めて明らかになった。
ひとまず公募に出した二作の結果を待って、ホラーを書くかどうか改めて決めても良いだろうという結論に達し、しばらくホラーを離れて自由に本を読もうと決めた。
そういうわけでかねてより積んで気になっていた高柳誠『鉱石譜』を手に取った。
これは今はなき、ささま書店で購入した署名本で、高柳誠の名は知っていて購入した。
今にして思えば惜しい書店をなくしてしまったものだと思う。
荻窪に住んでいた頃にしょっちゅう通って本を買った。
当時関わっていた文芸サークルの後輩と行ったり、主人とも恋人時代に何度も足を運んだ。
主人は私が欲しがっていた岩波文庫の杜甫全集を、私のいないときを狙ってかっさらっていった。
その後も主人の実家に置かれているらしいが、私はそれから一度も目にしていない。
主人は大学院で漢文を学んでいた人で、未だに和本を使って論語の読書会をして漢文に親しんでいるから、そういう人に買ってもらえて、杜甫全集も浮かばれるだろうと思う。
私も一時期は漢詩に親しんだものだが、ここのところはすっかりご無沙汰になってしまっている。またいずれ腰を据えて漢詩を読みたい。
それはともかく、高柳誠『鉱石譜』の話に戻そう。
私は現代詩にまだまだ疎くて、時々現代詩手帖を買ったり、金井美恵子詩集を読んだり、夏頃には朝吹亮二の詩集を読んだりした。
現代詩の意味の世界から離れた、言語芸術としての美しさは、近代詩を愛好していた頃はよくわからなかったのだが、逆にそれが新鮮で面白いと感じるようになった。
そうして少しずつ現代詩の読み方が分かってきたかなというところで、まだまだ実作に活かすには勉強が必要だ。
高柳誠の詩にフォーカスすると、言葉の持つ男性性を強く感じた。
鉱石というモノ自体が持つ硬質さと、高柳誠が紡ぐ言葉の硬質さがマッチしていて、これは女流詩人が同じテーマを扱ってもこういう作風にはならないだろうと思う。
私自身、作品にたびたび鉱石を登場させてきたが、どうしても有機的で抒情的な作風になってしまう。
私自身はやや硬めだと思っているのだが、人からの評価を受けて、たしかに吉田一穂や高柳誠のような硬質さとはほど遠いのかもしれないと思い直した。
硬いから良いとか、柔らかいから優れているとか、そういうものではないにせよ、プロの作品を読んで自分の立ち位置をたしかめるというのは、あらゆるジャンルの創作においてとても大事なことだと思う。
創作においては美しい文体、美しい文章を追い求めたい身として、少し考えさせられた。
また改めて詩を書きたいという思いを強くした。
私の詩は詩ではないという思いは未だに根強いが、こうして人に散文詩と認めてもらえたことが今は心強い。
カクヨムで連載していた詩も今はストップしてしまっているので、ふたたび書いていけるように準備を整えたい。
『挽歌-elegy-』『真珠姫の恋』と、ある程度形が見えてきた散文詩から少し距離を置きたくて、まだまだ模索は続きそうだ。
ちなみに真珠姫の恋は、同人誌にする計画があったのだが、どうしても都合がつかなくて泣く泣くWEBに全文公開することになった。
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