2020.10.26 思想を学ぶ
主人に勧められて読んでいた『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』を読み終えた。
儒教というものは徹底した自己の修養を説くということで、ずいぶんとハードルが高いなと感じた一方で、主人の人との付き合い方を見ていると、まさに儒教的だなと感じる。
礼をもって接するということは、そうたやすいことではないけれど、主人はまず人の悪口を云わないし、表立って誰かを非難することもない。
私と接していても、決して近すぎるということはなく、あからさまに素を出すこともなく、節度を保とうとする姿勢を感じる。
彼の家庭環境がそのような様子だったということで、根っからの儒教的人間なのだと思う。
その主人はこの本の孟子の箇所に惹かれて、和本で『孟子』を読んだらしい。
さすがに最高学府の大学院に入った人は違うなと思う。
休日は和本を用いて、仲間と論語読書会をしていて、社会人になっても漢文に親しもうとする姿勢には素直に尊敬の念を抱いている。
私は大学で記紀神話を専攻していたにも関わらず、ついぞ白文は読めずじまいだった。
ゼミでも和習漢文を長らく読んできたので、中国の正当な漢文とはまた訳が違うのかもしれない。
私自身はこの本を読んでいて、自分にとってもっとも有益だなと感じたのは、やはり孟子のくだりだった。
能動的であるとは、最適な状態をつくり出し、どんなさまざまな状況が生じても反応することだ。変化が育つような土壌をつくることだ。自分が何者であるか考えて、それに合わせて目標を決めるのではなく、自分が農夫だと考えてみよう。すると、きみの目標は、きみのさまざまな興味や側面が有機的に育つような土壌をつくることになる。
p108
これは、「わたしはなんだろうとなりたいものになれる」と考えるのではなく、「自分がなにになれるかは、まだ自分でもわからない」という気持ちでいろいろためしてみるやり方だ。どの可能性が自分をどこへ連れていってくれるかはっきりしない。それはまだ知りようがないからだ。けれども、自分自身について、そして自分がどんなことにわくわくするかについて発見できることは抽象的ななにかではない。実践の経験から得たとても具体的な知識だ。時間とともに想像もしなかった道がひらけ、それまで気づくことさえなかった選択肢が姿をあらわす。長い年月をかけて、きみは文字どおり別の人間になる。
p109
これは創作を志す人間にとってまたとない希望の言葉なのではないだろうか。
私は常にあらゆる可能性をさぐりながら創作を続けてきた。
得意とする異世界ファンタジーに限らず、時代小説、SF、詩歌と、さまざまなジャンルに挑戦してきた。
この本のこのくだりを読んでいて、その姿勢を肯定してもらった気持ちになった。
実際、これまでそれなりの作品を書いてきて、自分が向いているとは思わなかったホラーというジャンルをプロ作家に勧めていただいた。
未だに戸惑う気持ちもあるけれど、「望月すみれに近寄ってはいけない」を書いて、ようやく気持ちが固まったという感がある。
おかげさまで現時点で複数のコメントや感想をいただくことができ、主人からも褒めてもらえたことが今はうれしい。
そのことについてはまた別途創作ブログに書くとして、今は思想を学ぶことが自分の心を整える下支えになるのだということを改めて感じることができた。
先日、たまたまテレビでNHKの「宗教・こころの時代 禅の知恵に学ぶ」が放映されているのを見かけた。
実はテキストは以前買っていて、たびたび読み返していたのだが、この番組を観て「現成受用」なる言葉を知った。
ありのままの現実を受け入れて、それについて良いとか悪いとかの判断は下さずに、自分にとっての最善を尽くすということを山川宗玄さんは説いておられた。
良い機会でもあるし、これを機に再読してみるのもいいのかもしれない。
とにかく今は思想的なよりどころが欲しい。