2020.10.11 家事という営みを創作の支えとする
村上春樹『職業としての小説家』を再読した。
もう何度目の再読になるかわからないが、読むたびに村上春樹という人は誠実な人なのだろうという思いを新たにする。
引用を付したり、それについて思うところを述べたりする文章も途中まで書いていたのだけれど、ここでカミングアウトしたいことは特にないということに気づいて消した。
それから過去の記事を読み返していたら、そのあらましはここに書かれていたので、これをもって代えることにしたい。
自分の根源的な部分に根を下ろしていないと小説は書けない。
それはよくよく自覚している。実際これまでの十年に小説を書いてきて、本当に満足のいく出来だと思った作品には、少なからずその根源的な部分にある問題と、その昇華が描かれている。
ただそこに降りていくために、フィジカルな力が必要だというのがこの本のひとつの大きな論旨でもあって、そこにこの本の、ひいては村上春樹という人のオリジナリティがあるのだろうと思う。
最近、私は家事と創作の両立がうまくいかないことに悩んでいた。
昨日は精一杯できるだけの家事をこなせたけれど、持病が悪化していて、ウィークデイはなかなかままならず、創作の比重が大きくなるという場面も多かった。
創作というのはいわば「自由」なわけで、「義務」を履行しないところに「自由」はない、という私は風に捉えていて、どんなに不調でも掃除などの最低限できることをこなすことを自分に課しているのだけれど、それでは自責感に苛まれてしまうことにもつながりかねない。
自責感をバネに家事をこなすのは、私が身につけたひとつのうつのやり過ごし方ではあるけれど、ここ二週間ほどはその自責感が洒落にならないレベルで大きくなってしまい、おまけに身動きも取れないということも多かった。
そこで、村上春樹のいうところのフィジカルと精神面の両立という視点を取り入れようと思う。
家事は、私にとって村上春樹のいうところの「悪魔祓い」のような役目を担ってくれていることはたしかだし、ホラーを書こうとしている今だからこそ、その「悪魔祓い」はどうしても必要だ。
ホラーを読み書きしているうちに、ふとするとネガティブな方向に傾きかねないメンタルを、無理にポジティブに持っていくのではなく、あくまでも「フラットな」状態に戻すための家事。
生活を整えることでメンタルにもいい影響を及ぼしてくれ、創作をつづけるコンディションをつくるものとしての家事。
そのように捉えると、いくらかでも前向きに家事に励めそうだ。
そのために活用できるものはできる限り有効に役立てたい。
昨日も書いたように、『デルフィニア戦記』のシェラになったつもりで家事に励むというのもひとつの手だろう。
また最近お世話になっている、「北欧、暮らしの道具店」のラジオやコラムも折に触れて見聞きして、家事のモチベーションを少しでも上げていきたい。
お手本にしたいと思っている内田彩仍さんの本を読むというのもひとつの足がかりになるだろう。
そうして自分の外にあるものをうまく使いながら、自分だけのモチベーションに依存しすぎずに、家事をこなせるようになりたい。
今の私にとって最も必要なことは、あくまでも家事というフィジカルな営みであって、その下支えがあって創作という精神的な営みがあるのだということを改めて自覚したいと思う。