2020.10.09 ホラーについて考えたこと

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宇佐見まこと『るんびにの子供』を読み終えた。

「とびだす絵本」「獺祭」は幻想文学的な色合いが強く、「こういうものもホラーとして書けるのか」と新たな可能性を見出せたように思う。

「狼魄」は復讐譚となっている。全体的に説明的な文章がつづいて、肝心の人間関係の掘り下げの部分がいささか弱いと感じた。資料を前提として書く上で、どうしても避けられないのがこの「調べて書きました」感で、これは私自身もプロから指摘されて直したことがある。

あくまでも物語の本質、そしてホラーの魂のようなものは人間関係の葛藤と、そこからの解放としての「呪い」や「死」「狂気」にあるのだろう。

それは救いとはなりえないかもしれないが、たしかに物語の「型」を定めるために必要な要素であることに変わりはない。

 

怪異現象のような要素だけに依存してホラー小説が成り立っているわけではないということは、この本を通して読んで強く感じたことだ。

むしろそうした現象はプラスアルファの加点要素であって、本質的に重要であるのは、あくまでも人間関係をいかに描くかということに立脚している。

その深い掘り下げがなければ、表面的な怪異現象のおそろしさも、宙に浮いてしまうのだ。

そういう点において、この本はいずれも人間関係の闇に力点を置いていて、小説として心から楽しむことができた。

 

全体として、振り返ってみればいずれも粒ぞろいの短編集で、初めて読むホラー作品としては申し分なかったように思う。

特に「柘榴の家」がいい。初読時はアンハッピーなハッピーエンドだなという矛盾した感想を抱いたのだが、ここ数日病状が思わしくなくて、昼まで布団の中で惰眠をむさぼっていると、自分も幼児退行をして異様な形相で「あくお」と云い出しかねないのではないかという不安に駆られる。

そういうリアルとリンクしたときに、ようやくホラーはホラーとしての本性を発揮するのだろうと感じた。

仄暗い人間関係を克明に描くフィクションが残酷な現実と地続きであることに、一種の救いを見出すのがホラーというジャンルでもあり、また一見おだやかな現実が、露悪的で恐ろしいフィクションとどこかでつながっているということが、ホラーの恐ろしさでもあるのだ。

 

 

また、ホラーというものは本質的にいささか滑稽なものをも内包しているということは感じている。

以前、俳句をとある場所で公開したときに、「次はどんな貝を剥くんだろう。妹は次にどんな場所で臥せるんだろう。兄は次はどんなひどい目に遭うんだろうと面白く読みました」という感想をいただいたことがある。

kakuyomu.jp

思いもよらぬ視点をいただいて、ホラーと笑いとは密接につながっているのだということを感じた。

狂気の表現としての笑いもあるけれど、その要素を抜きにしても、ある異様な状況というのは、やはりどこかコミカルさを伴うものなのだろう。

たとえば映画「エヴォリューション」に出てくる、グロテスクな緑色のパスタのような食べ物が、無性においしそうに見えるという私の認識は滑稽だと云えるかもしれないし、視点をずらすことで生まれるホラーにおける笑いというものはたしかにある。 

エヴォリューション(字幕版)

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  • 発売日: 2017/01/14
  • メディア: Prime Video
 

「柘榴の家」にしても、老婆によって幼児退行させられていくアンチヒーローな主人公というのは、一種の滑稽さを伴うし、私自身は幼少期に祖母によって育てられた彼が、ふたたびそこに帰っていくという点で、それを彼にとっての救いだと読んだけれど、様々な解釈が可能なのだと感じる。 

おそらくホラーが客体化されたときに笑いというものが生じてくるのだろうと感じる。

 

もう少し色々と掘り下げて考えたいことはあるのだが、今日はいささか体調が芳しくなく、また集中力も途切れがちなので、それは今後さらにホラー小説を読み進めていく中で考えを深めていくことにしたい。

気になっているテーマとしては、「病とホラー」というもので、ホラーにおいて病をいかに扱うかということに関心を抱いている。

たとえばホラーにおける怪異現象の予兆としての「病」があり、不穏なムードを演出するための「病」があり、あるいは呪いや惨劇の結果としての「病」がある。「病」とホラーとは切っても切り離せないのだろうと感じた。

 

またホラーはポリコレと相性が悪い部分があって、横溝正史の小説の多くもおそらくは今の時流とは逆行するものと捉えられてしまうのだろう。

私はアンチ・ポリコレ主義ではあるが、今後ホラーを書くとなると、必ずこの問題に突き当たることになるのだろうし、現代のホラー作家がどのようにしてこの問題と付き合っているのかということにも関心がある。

それは追々考えていくことにしたい。