とあることがきっかけでホラー小説を読みはじめた。
そのいきさつについては以下の記事に書いたので割愛する。
読みはじめる前は、「ホラーなんてもともと好きではないし、怖いものは苦手だし、読む気になれない」と思っていたのだけれど、実際に読んでみるとあまり怖くない。
おそらく私が思うに、うつで日々頭の中が地獄の様相を呈している状態がつづいているので、並大抵の状況は恐ろしいと脳が認識しないのだろうと思う。
リアルで日々感じている得体のない恐怖や不安に比べれば、それが戯画化されたホラーというのは、むしろ「私の恐怖を外在化してもらっている」と感じる。
自分の感じている言葉にならない恐怖や不安が、言葉という形を取って外に表れるというところに「癒し」が生まれるのだろう。
ちなみにこの外在化という言葉については、『セルフケアの道具箱』で学んだ。
ホラーを描くという視点に立った時に、こうした心理学的な知識はいくらかでも役に立つのかもしれない。
実際にホラーにおいて精神疾患を扱った作品も多々あるのだし。
また、怖くないということに話を戻すと、「いやいや、こういう状況はあり得ないでしょう」と突っ込みながら読んでいることもあって、あまりホラーを怖いと感じないのだと思う。
たとえばAKIRAを観た時、カオリの死の苦痛が、彼女を愛し、彼女の肉体を取り込んだ鉄雄にも味わわされるというワンシーンにたまらない恐怖を感じたのだが、よくよく冷静になって考えてみると、あれは鉄雄の絞り出したような苦痛の叫びが怖いのであって、カオリの死の恐怖や痛みというものと鉄雄の肉体が果たして完全にリンクしうるのか?? と考えると少し疑問を抱いてしまう。
肉体的に取り込んで同一化してしまったのだから、別人の死の苦痛が自分のものとして感じられるという理屈は通るのかもしれないが、カオリが死ぬシーンは個別の肉体の死として描かれているし(そうでなければ彼女というひとりの人間が死んだという理屈も成り立たない)、「いやいや、いくらAKIRAの力が万能でも、そもそもAKIRAという概念自体に私は納得していないし、ちょっと無理があるでしょ」と思えば、「意図して怖がらせようと思ってこういうシーンを作ったんだな」とハリボテの裏側が見えるような気がする。
また伊藤計劃『虐殺器官』でも「虐殺の文法とは具体的に何を指すのか?」ということがついぞ頭から離れず、ラストシーンに至るまで、いまひとつ入りこめないまま最後まで読み切って解説を読んだところで、新人賞の審査員からも同様の指摘があったとのことが書かれていて、やはり俯瞰して読むという癖は大事だなと実感した。
伊藤計劃『虐殺器官』については様々に考えるところも多かったので、感想はこの限りではないが、ひとまずこの文章上ではここまでにとどめておく。
そういうひねくれ者なので、たとえば本作『るんびにの子供』の「柘榴の家」のアウトローな青年である主人公が、老婆によって幼児退行させられ、発狂するというラストシーンは、怖いというよりもどこか滑稽に思われるし、また実際のところそれが彼にとっての一種の救いであった以上、怖いというだけではない「癒し」に近しいものを感じる。最後の台詞もよく効いていて、作品として素晴らしくまとまっている。
ちなみに今のところ三作読んで、特に気に入っているのがこの「柘榴の家」で、死臭ただよう家の様子などの描き方や、よどみきった街の様子が特に優れているし、作品全体から感じられる終末感もたまらない。
つづく「手袋」は完全に人間関係の不和がベースになった話なので、ホラーというよりも、人間関係のおぞましさというものをいかに描くかということに主眼を置いた作品だと感じた。
突発的に作中の事件の犯人を絞め殺そうとするという展開には驚いたが、その後、物語の構造上の必然性が見えたので、ホラー小説として成り立たせるために必須なのは、説得力というよりも、むしろ人間関係に起因する様々な問題を解決する手段としての怪異現象ということになるのではないか。
あくまでも人間関係のこじれ加減や闇に力点を置いたものがホラーだとするならば、なるほど私がホラーを書くべきだという人の指摘はごもっともだということになる。
そういう視点で今後ともホラーを読んでいきたい。
ちなみにまだ読み終わってはいないけれども、読んでいる間、ギドン・クレーメルのバッハを聴いていた。
沈鬱な雨とシャコンヌの悲劇的な色合いの強い音色が、ホラーのムードを盛り上げてくれた。
読書をしながら音楽を聴くということは、最近はあまりしていなかったけれど、芸術の秋でもあるし、クラシックを色々と開拓しながら読むというのも楽しいかもしれない。