たしか今年の頭ぐらいに買って積んでいた『少女革命ウテナ』をようやく読んだ。
契機が巡ってきたのは、「百合SFを読みたい」という思いがあってのことだった。
amazonのkindleセールで百合漫画が安くなっていたのでポチろうかとためらっていたところ「いや、まずは本家を読むべきでは」という思いに駆られて手に取った。
思ったよりも少女漫画然としていて、メインストーリーは百合なのだけれど、サブストーリーは完全にNLだった。
ただ当時としては相当新しい作品だったのだろうなということは厭でも伝わってくる。
ウテナの強い意思のあり方はとても凛として美しいし、多くの少女たちが勇気づけられたことだろう。そういう力をこの作品は持っている。
私はウテナにも惹かれたけれど、アンシーのありようが今の自分と重なってしまって、感情移入せずにはいられなかった。
誰かに従属することの喜びと悲しみ、と書くとちょっといかがわしくなってしまうけれども、私の喜びのありようはすなわちそういうもので、そこから解放してほしいと願いながらも、それを達成できないところに、私の苦しみがあり、また中毒性のある愉悦もあるのだろうと思う。
支配と被支配という関係の中でしか人との関係を結べない。殊女性に関してはそうだ。
その両者は分ちがたく結びついていて、支配しながら支配され、支配されながら支配する。
その関係の発端を作っているのが実母であることを私は知っているし、(母と百合状態にあるとは私は思いたくないが)百合というものがその関係性と不可分である以上は、どうしてもその関係性の破壊と再生へと物語が進んでいくしかないのだろうと思っている。
そういう意味において、『少女革命ウテナ』は百合の根源的な関係性に深く根ざした作品だったと云っていい。
またそうした破壊と再生へと向かう関係性は、「リズと青い鳥」「ハーモニー」、「キャロル」『ずっとお城で暮らしてる』でも描かれるように、百合と分ちがたく結びついている。
百合という関係性は美しいばかりではない。
ユートピアのように百合を語る人(例えば多くの男性)に、このえも云われぬ苦しみと喜びはきっと伝わらないだろうと思う。
私はおそらくこれからも同じような関係を再生産しつづけるのだろう。
私が私である限り、そこから逃れることはできないし、そうした苦しみや喜びを百合という形で表象されて、いくらか心をなぐさめられ、あるいはそうした感情を揺さぶられつづけることに変わりはない。
それを絶望だと思うなら、それが創作をする糧となる。
自分の苦しみや悲しみを糧に創作をつづけることは決して容易なことではないけれど、いくらかでも自分を救済することができるのなら、私は書き続ける他ないだろう。