何を書くべきか
物語として成立しているかどうかのストライクゾーンは、そもそもそんなに広くないので、商業でも同人でも読めない小説が出てきていて困る。でも書く立場の人間としてはそこの区分けが明確にできてないとどうしようもない。
— 雨伽詩音 (@poesy_rain) 2020年9月29日
人の小説を読みながら、絶えず自分の創作の方向を修正していかねばならないので、なんとも気が抜けないというか、これまではおそらく普通に読めていたものがだんだん読めなくなってきていて、このままだと幻想文学を読めなくなりそうでちょっと怖い。今は話の型がしっかりしているものを読みたい。
— 雨伽詩音 (@poesy_rain) 2020年9月29日
というツイートに引き続いて、自分の創作がどうあるべきなのか、少し考えてみたくなって筆を執ることにした。
これまでも「山尾悠子か上橋菜穂子か」と友人に問われたり、自分自身方向が定まらないところがあったことは記事にも書いてきた。
正直に云うと、私の小説というものはこの詩的散文とプロット主義の折衷で成り立っているので、話の型をきちんと作りながら詩的散文を書いていくということに尽きるのだけれど、この詩的散文というのも塩梅がなかなか難しい。
行き過ぎると話の型から逸れてしまうし、かといって話の型に寄り過ぎても、それは私が書くという必然性から離れてしまう。
そこで、次の三つに自分の作品を当てはめて考えることにしたい。
詩的散文寄り
拙作で詩的散文として挙げたいのは「花ざかりの地獄」だが、これは完全に話の型というものから離れていて、今読み返す勇気がない。
浮遊感や酩酊感をもたらす文体を読者の方に評価していただいたことが何度かあって、それはそれとしてありがたいが、プロ作家に云わせれば「あなたは浮世離れしているから現代小説は向いていない」とのこと。至極もっともだと思う。
実は現代小説は一本眠らせているものがあるけれど、それもおおよそ現実感のない話なので、しばらくお蔵入りさせておく。
プロット主義寄り
逆に詩的散文から極力離れて、プロットの型を重んじたのが「all the good girls go to hell」「瑠璃神話」で、「all the good girls go to hell」をプロ作家に評価していただいたのだから、今後はこちらの系統(つまるところはホラー小説)を書いていくべきだというアドバイスも、ようやく飲みこめる気がする。
またホラー小説(という自覚はまったくなかったのだが、友人に見せてようやく指摘された)を初めて書くに至った掌編も、友人から「こういう系統のものをもっと書くといいかもしれませんね」を評してもらえたのを思い出す。
いずれもホラー小説だと思って書いたわけではなく、「瑠璃神話」は民俗×記紀神話の異世界ファンタジー、「all the good girls go to hell」は時代小説だと思って書いたのだが、この「患者番号08396」を書いた時点からすでに現在に至る萌芽は兆していたのかもしれない。
詩的散文とプロット主義の折衷案
カクヨムコンテストで最終選考まで残った「山妖記」と、和漢折衷異世界ファンタジーを書くきっかけとなった「翠の鳥」。
この二作はいずれも本当に自分が書きたいと思える小説で、今後ともこの和漢折衷異世界ファンタジーを書いていきたいと思っているのだが、いかんせん商業ベースで考えると分が悪い。
異世界ファンタジーの主流派はライトノベルだし、文体も内容も著しく乖離がある。
そこで、ホラー小説を書きながら、趣味として異世界ファンタジーを書き続け、いずれもしデビューすることが叶ったら、その時にようやく商業ベースに乗せられるか否かを決めるということにしたい。
つまりおこがましい云い方をすれば、はじめはミステリー作家としてデビューした「山尾悠子でも上橋菜穂子でもなく皆川博子」を目指すということになる。