【創作メモ】AKIRAを観て考えたこと
夫に誘われて、先週末にネトフリでAKIRAを観ました。
もともとグロテスクな映像が好みではないので、乗り気ではなかったのですが……案の定つまらなくて、その上無駄に悪趣味で、いろいろと考えこんでしまいました。
映画は映像を見せるものでもあるので、プロット主義に拠らなくても成り立つことは成り立つと考えていますが、ストーリーがほとんど成立していなくて、監督の意図はそこを超えたところにあるのだろうなと察しました。
あくまでも前衛芸術を目指したのだろうなと。
とはいえ、やはりプロットの定石を踏襲していないストーリーというのはどうにもつまらない。
プロットの構造をしっかり踏まえているものは、誰が見ても面白いようにできているわけです。
ハリウッド映画が、たとえ手あかにまみれていたとしても面白いのは、徹底したプロット主義に拠っているからです。
それを是とするか非とするかは私自身は判断しかねています。
映像美を主眼に据えたヨーロッパ映画の方が好きなことに変わりはありませんし、ドタバタでありきたりな展開を詰めこむプロット主義にうんざりしていたのもまた事実です。
型どおりの物語をなぞって、その過程でひとつひとつの要素を踏襲していくのをたしかめたところで、果たして面白いと云えるのだろうかと考えてしまっていました。
それはあくまでも鑑賞を通じた確認作業に過ぎないのであって、予想を裏切らない展開に満足できるものなのだろうかと。
しかしAKIRAは徹頭徹尾つまらなかった。
それがすべてを物語っているように思えてなりません。
前衛を目指すことの危うさや脆弱さというものを見せつけられた思いがしました。
時代というものの大きな波を受けても朽ちないものについて思いを馳せ、大変考えさせられました。
そういうこともあって、こちらに書いた記事のことを思い出しました。
AKIRAを観ていて、それを端的に文章に置き換えることはできないのですが、私自身が詩的散文とは云っても、結局独りよがりに過ぎないのではないかという思いが頭をよぎりました。
これまでは「耽美」という型の枠内でそうした詩的散文を書いてきましたが、あくまでもその型を守らなければ、それを「詩的だ」「美しい」と読者に認識していただけることもないでしょう。
私はあくまでも「耽美」という型だけは守るつもりですが、そこにも限界はおのずと生まれてきます。
「耽美」の枠内というのは、絵画や諸芸術を鑑みても分かるように、とても狭くて、少しでもそこから逸れると、もはや「美」と認識することも難しくなってしまう。
「美」というのは様式が全てなのであって、あくまでもその枠内でのみ成り立ちうるものなので。
「耽美」を追求しつづける限り、たとえプロット主義という枠から自由になれたとしても、その枠内から自由になれることは決してありません。
いずれにせよ型から本当の意味で自由になれる芸術というものは存在しないのだろうと思います。型こそが芸術の本質だと云ってもいいのかもしれません。
また川端康成を引き合いに出して、「プロットの型から敢えて外れるというのなら、徹底して前衛を目指さねばならない」ということは、以前夫にも口を酸っぱくして云われたことを思い出しました。
それでも私の作品にその「新しさ」はない。
上の記事に書いた「山尾悠子と上橋菜穂子」という二択を考えたときに、「山尾悠子」は徹底して「新しい」わけです。言語芸術という境地に達することができなければ、あるいは前衛芸術としての価値がなければ成り立たない。
そういう「新しさ」は私は持ち合わせていない。どちらかというと近代文学をベースに文体を築き上げてきましたし、プロットを立てる段階で終始起伏のないあらすじや、エキセントリックな物語を考えるということもありません。
つまりプロット主義からはどうにも逃れられないわけです。
そうなると徹底して書いたものを見直す必要が出てくるわけですが、私は欲張りなのでオリジナリティや自分の色も表わしていきたい。
私の書き癖になっている「序破急」の展開は、その前衛とプロット主義の折衷だと云えるのかもしれません。序の段階で詩的散文を書き綴って、破でそれを打開し、急で展開を収める。そのスタイルが私には合っているのだろうなと感じます。
その総体から一種独特のオリジナリティが生まれてくるのではないかというのが私の試みになるというわけです。
すでにそういう試みをした作家はいます。敢えて名前は挙げませんが、私は彼の作品を心から愛しています。
一時期は心酔して何度も何度も読み耽りましたが、今再び読むとまた違った印象を受けるのかもしれません。
ひとまずここまでに書いた新作の文章を読み返し、またその作家の作品を今一度読み返してみて、考えたことを反映させていければいいなと思います。