住むべきところ
Twitterを再開しようと思って、ツイートを投下してTLをさかのぼっていたら激しい動悸がしたので、再開を断念しました。
SNS断食をして約二ヶ月、すっかりSNSから離れた暮らしぶりが落ち着くようになってしまったようです。
この間、ほぼ毎日読書に励んできましたが、Twitterや読書メーター(読書メーターはすでに退会済み)に感想を書かなくてもいいという環境が、読書にとってどんなに大切なことかを実感しています。
ここのところつづけて観ている映画にしてもそうですが、感想をシェアしなければならないという意識に縛られてしまうと、自由な鑑賞ができなくなってしまうなと感じます。
私はそれらの感想をアナログのノートに書いていますが、それは誰に見せるわけでもない、私自身のための感想です。
そこから創作に結びつくこともあるでしょうし、あるいはごくごく個人的な感傷にひたる甘い時間を過ごすための大切なものでもあります。
そうしたことが他人とシェアすることを前提にしてしまうと、なかなか成り立たないなということに気づきました。
他人のための感想や意見になってしまうと、そこから成熟していかないと感じます。創作にしても、自分の心をより豊かなものに育てるにしても、どうしてもひとりで熟成させる必要があります。
また、映像や本の中に出てきたワンシーンを自分の中で何度も繰り返し再生しながら、じっくりと味わう喜びは、なにものにも代えがたいものがあります。
こればかりはSNSをやっていては実感できません。
SNSをやめてから、創作意欲が以前のように湧いてこないことに悩んでいましたが、Twitterを毎日見ていたのでは絶対に読めない本というものも世の中にはあります。
今、私は給付金で買った林望訳『源氏物語』を読んでいて、これは時間泥棒に邪魔されると到底完走できないだろうなと思います。
貴族のようにたっぷりと時間を費やすことでしか、源氏物語を真に味わうことはできないでしょう。日々忙殺されながら読むのとでは全く印象が変わってくる本の好例だと思います。
時間がなければできないことは世の中にはたくさんありますし、その時間を割いてでも他人のアウトプットのあれこれに頭を悩ませたいかと問われると、答えはNOです。
私は私自身が一番大事ですし、夫とのコミュニケーションを豊かなものにすることも云うまでもなく大切です。
SNSをやめて良かったと感じることのひとつは、リアルでのコミュニケーションがそれまでよりずっと充実したものになったことです。
見も知らぬ人の世迷言を夕食の席で話すこともなくなりましたし、夫がゲームをしている間に、それをまったり眺めながら言葉を交わしたりするゆとりも私には欠かせません。
画面の向こうの相手とのやりとりや、どうでもいいニュースに気を取られて、夫との時間を無駄に消費することは避けたいのです。
今こそデジタルミニマリストを再読すべき時だと感じます。
ひとりの時間にじっくり読み返して、意思をたしかなものにしたいです。