低気圧と低血圧と寒さで瀕死でしたが、なんとか外の用事を済ませて帰宅。オカワダアキナ(@Okwdznr)さんの『蝸牛温泉』と海老名絢(@itsuka2015)さんの詩集『声を差し出す』が届きました🌸✨ ゆっくり読ませていただきます💓 pic.twitter.com/8S8k9PQ7G8
— 雨伽詩音 (@poesy_rain) 2020年6月19日
海老名絢さん『声を差し出す』 #読了
— 雨伽詩音 (@poesy_rain) 2020年6月19日
やわらかで身体的なところから発せられる言葉の数々に、心が呼応して美しく響くような詩集でした。中原中也賞最終候補ということは差し置いたとしても、素直に「これはすごい……!」と感嘆しながら夢中で読みました。宝物のような一冊になりそうです。
先日、海老名絢さんの『声を差し出す』という詩集を拝読しました。
驚いたのは、言葉の持つ身体性をここまで表現できるものなのかというところ。
それからしばらくいろんな人の作品を読んで、あらためて考えてみたいと思ったので、こうして筆を執ることにしました。
◆目次◆
言葉の身体性と必然性
複数の友人と話していて、「自分の文体が欲しい」という声をいくつか聞いたのですが、文体というのは、書き手の声そのものだと私は思っています。
どの語彙を選択して、どの言葉を選ばないのか。
日常生活においてもその選択は常に迫られていて、たとえば私は「まずい」という言葉は極力避けて「おいしくない」という言葉を使ったり、「寝こむ」という言葉は使わずに「臥せる」という言葉を用いたりします。
その基準はどこにあるかというと、自分の聴覚過敏に起因しているところがあって、聴覚にさわるような言葉はあまり使わないようにしています。
そうした言葉は己の身体に深く染みこんで、文章となって表れてきます。
誤った言葉の使い方をしていれば、それがそのまま反映することにもなりかねませんし、諸刃の刃とも云えますが、日頃から用いる言葉に気を配ることは何よりも欠かせないのだろうと感じます。
これは何も私に限ったことではなく、上にも紹介しているオカワダアキナさんの日記を拝読していても、
インプットってあんまり言いたくない。インプット・アウトプットって言いかた、便利だからやっちゃうことはあるけど、言いたくない言葉多いな。
というところでハッとしたのでした。
おかさんの文章は、こちらの日記を拝見していても分かるように、「語り」を重視した文体です。強いて洗練を極めるというよりも、一見とりとめのないように見える「語り」の「芸」の世界の延長線上にありますが、その「語り」はおかさんご自身の語彙の選択の上に成り立っているということは云うまでもありません。
また「語り」は身体性を抜きにしては存在しえないことを考えると、おかさんご自身のさまざまな思想や経験、バックボーンが「語り」として結実していっているのだろうと拝察します。
おそらく言葉にこだわりを持つ人は少なからず「使いたい言葉」よりも多くの「使いたくない言葉」というものがあるのではないでしょうか。
その語彙の選択からすでに文体の構築ははじまっていて、私の場合は聴覚過敏に根ざしているので、言葉と言葉が触れ合って耳障りな音を立てないように文章を書きます。
それがもっとも明らかな形で表れたのが「山妖記」だったのでした。
目は見えずとも、四季折々に鳴く鳥の声や、春雨秋風に季節を感じ、もしこれが麓の国の帝であったならば、歌人に歌を詠ませて
無聊 を慰めただろうと思われた。あいにくと生来より山で育った私は歌のひとつも詠めぬのだが、琵琶の調べに乗せて節をつけてあてずっぽうに歌えば、幾分か心安らぐ心地がする。
清らかな秋月の光もこの心までは届かずに、秋の夜風に唇で触れては音曲となってこぼれだすのだった。
流麗と多くのレビューで評していただきましたが、文章の流れを構築するのはひとつひとつの言葉に他ならず、その言葉を用いるときに、己の血肉となるまで消化できていなければ、少なくともパッと出てくることはありません。
一語一句ごとに辞書を引きながら、あるいは他人の文章を参照しながら文章を書くというのは現実的ではありませんし、結局己の肉声として出てこない言葉を使っても、言葉だけが一人歩きしてしまって、おおよそ意味を捉えられなくなったり、前後の文脈にそぐわずに浮いてしまったりします。
そしてそうして浮いてしまって身体から離れてしまった言葉というものは、得てして読者に伝わるものです。
「言葉を調べて頭で書いている文章」「覚えたての言葉を使って書いている文章」というものはだいたい読めばわかります。
そうした言葉を使い続けて作品を仕上げるということは並大抵のことではなく、必ずほころびが生まれるからです。
前後の文脈を含めて完成された領域まで高めなければ、本当の意味でその文体をものにしたとは云えないのだと思います。
山妖記はおかげさまで次のようなレビューをいただきました。
なんと言っても地の文の濃さです。
本当に昔話を紐解いているような、初めから最後まで、全く崩れない美しい文章が深く深く読者を世界へと連れて行ってくれます。
ただし、この文体もまだまだ改良の余地は残されていますし、さらに文体のバリエーションを持たせたいと考えています。
山妖記のように古典調の文章ではなく、平易な文章、端的に伝わる文章であっても、より文章表現を磨いていきたいです。
校正の重要性
しかし本当に言葉の身体性を求めるというのなら、校正はどのように捉えるべきでしょうか。作者の肉声そのものが文体となるのなら、校正によって損なわれるものがあるのではないかという問いも当然生まれてくるでしょう。
しかし語彙の用い方に際して誤りがあれば、それは文体の構築以前の問題となりますし、校正の目的は身体性を削ぐことにあるのではなく、それをより的確に洗練させていくことにあります。
中学生の頃、吹奏楽部の指揮をしていた恩師が「鬼のように練習しなさい」といつもおっしゃっていましたが、我々は「鬼のように校正する」しかないのだと思います。
校正については以前こちらに書いたので、重複する部分は省きます。
私の場合は小説が下手なので、短編を書いても、三校ほど赤入れをすることも少なくありません。
今回書いた「all the good girls go to hell」では徹底的に文章を見直しました。
母が亡くなってすでに六年、この間りんは父が色に溺れ、寺に地獄絵を奉納しながらもふしだらな生活を送ってきたのを耐えしのんできた。十六歳の花ざかり、男を好くどころか嫌悪の色もあらわにして遠ざけてきたりんは、嫁入り先さえ決まっていない。
後妻をもうけることもなく、日々数々の女たちを家に招き入れる父は、凛を厄介者と邪険に扱い、いい顔をするのは寺との絵のやりとりをする間だけだ。りんを使いに走らせることも常で、その間父は着流しを着くずして女の体に溺れ、気が向けば筆をとる。
母がこのありさまを目の当たりにすれば、どんなに悲しむだろうと涙で枕をぬらしても甲斐はない。恥を忍んで僧を相手に窮状を訴えるのもはばかられて、りんは父の目をぬすみ、覚えた文字で日記をつづるのをせめてもの心のよりどころにしていた。
恨みごとをつづっても読んでくれる者とていない。されども想いを言葉にすることは、少なからずりんの支えとなっていた。つたない女文字が並ぶ日記を文箱の底にしまって、りんは毎夜眠りにつく。涙が散って文字がにじんだところもあれば、怒声が筆の勢いにあらわれたところもある。
いずれ一冊の本に綴じて、長屋の庭先で燃やしてしまおうと決めている。燃えて煙となって天に昇ってゆけば、きっと母の耳にも届くだろう。少女のいたいけな夢は、胸の内で少しずつはぐくまれてゆく。
結果的にはじめに書いた文章とはまた異なる文体の作品に仕上がりましたが、それでも校正における語彙の選択にも身体性が表れているということを考えると、これもまた私の肉体から発した言葉なのだろうと思います。
何よりも大事なのは誤りを正すことですが、そこからさらに新たな表現の可能性を開いてくれたという点において、改めて校正の大切さを思い知った作品となりました。
校正はしてもしすぎるということはまずないのだなということを痛感しました。
今後の文体について
しばらくは今書いている「ヴァニタスの系譜」と向き合うことになるので、「山妖記」とも「all the good girls go to hell」とも違う文体で書き続けていくつもりです。
現代小説の文体はまだまだ模索中です。いわゆる現代の純文学風のあか抜けた文章というのは難しいので、一朝一夕に身につくものではないなと痛感しています。
まだまだ模索が続くことになりそうです。
ただそこにも必ず「私の身体を伴う言葉 」というものが眠っているはずなので、しばらくはそれを模索しつつ、文章と向き合っていこうと考えています。