去年のベスト本、萩原朔太郎の『月に吠える』を再読した。
昨年の秋頃に高校時代ぶりに朔太郎と再会し、その後彼のエッセイの数々や三好達治の『萩原朔太郎』、『国文学 鑑賞と解釈 萩原朔太郎』などを通読した。

国文学 解釈と鑑賞 855 2002年8月号 特集=萩原朔太郎の世界●「父・萩原朔太郎」その後 /萩原葉子●朔太郎をめぐって
- 作者: 伊藤信吉,河内信弘,坪井秀人,桶谷秀昭,安智史
- 出版社/メーカー: 至文堂
- 発売日: 2002/08/01
- メディア: 雑誌
- この商品を含むブログを見る
その上であらためて朔太郎を手に取ろうと思ったきっかけは、昨年の秋とは違って私の上に孤独と抑うつがのしかかってきていたからであり、自分の力ではなすすべもないこのふたつの代物を持て余して、友を求めるようにこの詩集を手に取った。
なるほど、朔太郎の詩は私の心に寄り添い、私に代わって絶唱し、私をやさしくなぐさめてくれた。
ああ今私はたしかに彼の言葉を求めていたのだと感じずにはいられなかった。
しかし一方で、私の冷徹な目は「月に吠える」「青猫」に比べて「純情小曲集」「氷島」を批判せずにはいられなかった。なるほど、病みつかれた心に“あやめ香水の匂い”の「純情小曲集」は匂やかに香り立ち、私を癒してはくれたが、この詩集にはもはや「月に吠える」や「青猫」のような他を圧する個性や力強さはない。
おそらく朔太郎も疲れていたのだ。東京という土地に、世間に、そして妻というものに。
たとえ文語詩が彼にとって必然の産物であったとしても、文語の言葉の弱さ、そこにつきまとう詩の外にあるイメージが朔太郎の詩、ひいては彼自身の言葉を破壊してしまっているように思えてならない。
三好達治が舌鋒鋭く批判したように「氷島」の出来も悪い。天賦の才能に恵まれながらも、その才能と青春のほの暗いきらめきが一瞬交錯して見事な光を放った人、という風に私には見える。
実際、朔太郎自身も随筆「僕の孤独癖について」の中で
その代わりに、詩は年齢とともに拙くなって来た、つまり僕は次第に世俗の凡人に変化しつつあるのである。
と記している。
これは創作に携わる人間の宿命とも云っていい問題で、決して他人事ではない。
朔太郎はたしかに天才だ。しかし才能というものは有限で、時間の経過とともに衰えたり、ついには消え去ってしまう。そのことを自覚した彼が、私にはなによりも愛おしい。孤独をこじらせて詩に思いの丈をぶつけていた頃よりも、むしろ己の才能の限界に直面し、それでもなお詩を書かざるを得なかった彼がかぎりなくいとおしいのだ。
なお、「国文学と鑑賞」を読んでからこの詩集を再読したこともあって、次から次へと詩を読むごとに「この描写は朔太郎特有の特異な表現だな」ということを改めて認識したのだけれど、詩を鑑賞するのにそのような知識が必要だろうか。
歌でも絵でもほんとうに鑑賞するということは、すべての先入観や偏見を忘れることであり、無心で付き合うことが大切だと思う――白洲正子『私の百人一首』
と説いた白洲正子のように 、詩もまた感ずるままに感ずるのがよいのだと思う。