日夏耿之介との出会いは大学時代に遡る。
当時国文科の近代詩の講義を受けていた私は、その頃親交のあった女の子が日夏耿之介が好きと口にしていたこともあり、また講義のテキストでも「ゴシックロマンな詩」として紹介されて気になっていたのだが、実際にその詩に触れたのは、以前通っていた図書館でのことで、それからしばらくは離れていたのだけれど、先日新たに通うことに鳴った図書館で本棚を見るともなく見ているとこの詩集と目が合ってしまったのだ。
なにかしら運命的なものを感じて借りて家に持ち帰り、読み進めて行くうちに、「ああこれは今まさに私が読むべくして出会った本なのだ」という実感が湧いてきた。読書好きならば覚えのある体験だと思うが、この時ほど「本を読んでいてよかった」と思う瞬間はない。
芸術は人間最高の心的活動の一である。鈍劣不遜の民人が頓悟して此の秘壇を垣間見んとならば、若き沙門の修道の如き心にして其の知見の誇りを捨て芸術の理想大旛の前に跪拝せよ――日夏耿之介「詩集 転身の頌序」
ここのところ詩作に行き詰まっていた私は、美を至高のものとして仰ぎ見るということをいつの間にか忘れかけていた。その心を諭してくれたように思って、この一文にはっとしたのだ。
「王領のめざめ」や、ヨハネの黙示録を彷彿とさせる「海底世界」、麗しい「真珠母の夢」の絢爛豪華で美しい詩の数々に私は夢心地になったが、病みつかれた私の心を癒してくれたのは次のような詩たちだった。
夜風も淫りがましい五月の夜
病後の身は
新鮮な万物に手をとって迎へられるまま
天上の月かげにも
狂ほしく甘え心地で
魚のやうに泳ぎまはり
――日夏耿之介「しかし笛の音はない夜のこと」
賢人よ
宵(ゆふべ)の紅(あけ)に心かなしみ
月もなき夜半をも嘆かずにあれ
渋面(しか)める闇は日輪(ひ)をいただき
小さくかろき館(やかた)なる椽(たるき)を染めむ
――日夏耿之介「賢こき風」
訖(つひ)にいま
己が肌(はだえ)に快い微風を感じ
風防林の一角よりは
入浴後(ゆあがり)のやうな満月が円円とさしのぼった
月(そ)の光は銀糸のやうに震慄(ふる)へて
蒼白い紗の帳(とばり)引く内陣に滲み透る
そこで大そう疲憊(つかれ)を感じたゆゑ
舎人(とねり)らはひとりびとり
己が古城の神前の巌丈な悒鬱な
ただくろ(黒+㐱)い
樫材(かし)の寝棺で仮睡(ねむ)りたいのだ
――日夏耿之介「神前に在りて」
正直なところ、ここまで日夏耿之介の詩に心ゆだねることができるということは、あまり想像していなくて、ただ耽美で美しい詩の数々を堪能するつもりでいたのだが、いつの間にか詩の世界に入り込み、ああやはり詩というものは内面を謳わなければだめなのだとも感じた。
しかし私が最も驚いたのは、日夏耿之介の「再刻本の序」の次の一文であった。
私の作風はもとより時尚を追うて転々する青年士女の一瞥に依る嗜好を牽きうるものではなかった。(…)けれども当時の詩壇は、現詩壇のごとくに私にとつては不快な空気の場所で、自分の思想も感情も趣味性も一々丁寧に説明するに非ずんば(説明しても駄目の場合が多かったが)、理解しがたい無縁の衆民であつたから私は種々の慢罵に堪へて依然として私の作風を固守しなければならなかった。ーー日夏耿之介「再刻本の序」
その苦しい心境は「黒衣聖母の序」にも記されている。
詩の上に限つて見ればこそ、他人が功業をも優に大成したる十幾歳の長明を費やして、辛うじて幾分の自信と幾分の批判力とを有するようにはなつたのだけれども、己れの心生活の全域にわたつて考へてみれば、かかる夥しき時間の浪費をも遂に何等の成果を齎さなかつた。出来るだけは努め、あがけるだけはあがき、疑惑し、妬視し、奮躍し、放心し、逡巡と躊躇と踠転と盲進と醜い独り相撲を繰り返して今日得たところのものは依稀とした空虚である。無智である。軽挙妄動である。猜疑と悪あがきと無言の絶望と小乗の忍従である。――日夏耿之介「黒衣聖母の序」
あの日夏耿之介ともあろう詩人が己の作風に対してここまで苦闘を強いられ、悩み抜いていたとはつゆほどにも知らなかった。私は身勝手にも彼が達観の境地にまで達して、このきらびやかな詩の数々を残したのだと思っていたのだ。ゴシックロマンの旗手として、堂々と世に名を轟かせていたのだとばかり勘違いしていた。
私の詩には人間心の赫爠たる遍照も、目ざましい飛躍もない(…)本集の仮にゴスィック・ロマーン詩体ともいはばいふべき詩風は私の思想感情を領している傾向の結果であるが、最近の私といふ人間の思想感情はこれらの詩によつて最も妥当に表現せらる。私の退嬰性と向日性と不安性とわたしの感情の沈鬱とはこの表現に委曲を尽くしてゐるのであるから、私の都に不快感を感じる人は句文の末端まで私を不快とし、私の都てに好感を感じる人はかかる末節まで私を信愛するであらう。(…)所詮、偉大な詩篇は、わが内生の晴坑を掘り下げて行った最も真摯にして委曲をつくせる感情の記録である。――日夏耿之介「黒衣聖母の序」
しかしここで日夏はひとつの結論に達する。それはただ己の詩を好む読者を信じ、彼および彼女のためだけに詩を書くということだ。
それは巻末の佐藤正彰「研究 日夏耿之介論」でも論じられている。
かくしてこの詩は「思想上の貴人」が相手である。作者は公衆に追随して作者の註文を己に適合させる代わりに、作者に追随して作者の註文に己れを適合させるやうな公衆をめあてに、殆んどそのやうな理想的読者を仮定して、創作する。つまりは現在未来の読者への顧慮を放擲してゐるに等しい。
“「なるべく自分の生の限りの心持ちを正直に緻密に丹念に言葉の様式で表はそうとするだけで(…)文字や用語が読者に難解かどうかは全然考へたことはない。「死後の名を苦慮」するのでもない」(『黄眠詩教義問答』)”
明治以降、我が国の詩人でこれほど一途に自己の純潔を守り通し、それによって自己の個性を徹底実現し得た詩人を私は他に知らぬ。
これは詩人と自己と自己の芸術とにたいする厳重な検討の果ての信仰告白(プロフェッション・ド・フォワ)であり(…)この独自の詩的表現は屢屢非難されたやうな趣味とか、衒ひなどといふ余裕のあるものではなく、氏にとつては己の詩想を盛る唯一ののつぴきならなぬものであり、これを好まぬならば即ち日夏耿之介そのものを好まぬに外ならない。この極めて個性的な詩人には、この極めて個性的な言語形式が必然であり、本質である。――佐藤佐藤正彰「研究 日夏耿之介論」
朔太郎の文語詩が彼にとって必然性を纏っていたように、日夏耿之介の詩もまた必然性の産物であったのだということに、私はいたく勇気づけられた。
まことに不遜ながら、私は詩や小説を書く中で、文体を批判されることが多かった。難解と云われることもあれば、これでは長編は書けないとまで云われた。しかし私にとってもまた私の文体は必然性を伴っているのだと、この詩論を読んで、ようやく心から納得することができた。
詩作の感覚を取り戻すにはまだまだ時間がかかるだろう。それでも私は詩を書くことを諦めたくはない。
長編にも挑みたいと思っている。だがあくまでも私は私の小説を書くつもりだ。他の誰でもない、私だけの小説を。