サディスト礼賛
蓮池水禽図 伝顧徳謙筆
鳥というモチーフが好きだ。
花鳥風月とも云われるように、鳥は雅なものとして好まれる。動物でありながらもどこか高貴で、花を好む姿も美しい。
また鳥はエキゾチックな生き物でもある。白鷺、鶴などはその最たるものだろう。
多くの着物に刺繍され、あるいは染め上げられてきたように、どこか東洋のエキゾシズムが感じられる。花鳥画がもてはやされてきたのも東洋独特の美意識の表れだろう。中国絵画にしても、日本美術にしても、私は花鳥画を殊に愛する。
鳥を美しく描いた作品として私が挙げたいのは、ひとつは三島由紀夫の「孔雀」、そしてもう一つは澁澤龍彦の「陽物神譚」だ。
いずれも孔雀がモチーフとして作中に出てくるのだけれど、孔雀のもつ耽美と倒錯が目眩のするような美しい筆致で描かれ、鳥というもののロマンティシズムを掻き立ててくれる。
あれは実に無意味な豪奢を具えた鳥で、その羽根のきらめく緑が、熱帯の陽に映える森の輝きに対する保護色などという生物学的説明は、何ものをも説き明かしはしない。孔雀という鳥の創造は自然の虚栄心であって、こんなに無用にきらびやかなものは、自然にとって本来必要であった筈はない。創造の倦怠のはてに、目的もあり、効用もある生物の種々のさまざまな発明のはてに、孔雀はおそらく、一個のもっとも無益な観念が形をとってあらわれたものにちがいない。そのような豪奢は、多分創造の最後の日、空いっぱいの多彩な夕映えの中で創り出され、虚無に耐え、来るべき闇に耐えるために、闇の無意味をあらかじめ色彩と光輝に翻訳して鏤(ちりば)めておいたものなのだ。
――三島由紀夫「孔雀」
孔雀神はバクトリアの翠緑玉を嵌め込んだ丸い魚の目と、尖った紅い嘴と、目もあやな玉虫色に輝く蛇紋の尾羽と、豊麗な女の乳房をもつ生殖神で、その二つの乳房は左側が昼を宰領し、右側が夜を宰領する。右の乳房は殺人と男色が許容され、左の乳房は自殺と異性の交媾を禁止する。
――澁澤龍彦「陽物神譚」
ところで、鳥というと私は朱い鳥・青い鳥・そして翠の鳥が登場する「翠の鳥」という和漢折衷王朝ファンタジー作品を書いたのだが、この作品を書いたきっかけは中野美代子の本に触れたことだった。この本に収録されている「天子の動物園」にインスパイアされたのだが、いにしえの皇帝が鳥を集わせた園を造らせるのも分かる気がする。
美しく生けるものを蒐集したいという欲求は、現代のアイドル文化にも通じるものがあるのかもしれないが、私はそのような通俗性をできるだけ遠ざけたい。
だが鳥を蒐集するのも美少女を蒐集するのもそう変わらないのかもしれない。実際、澁澤龍彦の『少女コレクション序説』などはその最たるものだろう。
しかし、鳥には悲哀がある。大空を翔ける鳥を鳥籠に閉ざし、翼が地に垂れて死に行くまでただ美を鑑賞するだけのものとして飼い続ける。そこに人間の情愛などない。たしかに閉ざされた鳥を人は愛するだろう。だがその愛は美術品への愛であり、蒐集欲を満たすためだけの愛なのだ。『春琴抄』のように鳴き声の美しさを他の鳥から学ばせて、美声のさえずりを愛玩することもあるだろう。しかしそれは支配者の悦びであり、鳥の喜びではない。その人間の倨傲さと愚かさが私にはたまらなく魅力的に感じられる。
以前、彼に「『春琴抄』を読むときには春琴に感情移入をして読むし、「蘆刈」を読むときにはお遊さまになって読む」と云ったら「谷崎をS視点で読んで何が楽しいのか」と呆れられたが。
先日彼に誘われて実写版カイジを観た。
藤原竜也扮するカイジの観客に訴えかけるような迫真の演技は素晴らしく、ブラウンリップが印象的な天海祐希演じるクールな女社長の役柄も良かったのだが、私を惹きつけたのは、鉄骨渡りを鑑賞しながら酒に興じる富豪たちの姿だった。
安っぽい演出ではあるけども、封神演義の妲己と紂王の酒池肉林のシーンといい、あの目の前で弱きものが悶え苦しむさまを平然と眺めながら饗宴を楽しむ姿というのは、幼少期に児童書版の封神演義を愛読していた私にはひときわ印象に残っている。
鏡花も悪女を好んだと云うし、谷崎は云うに及ばずサディスティックな美女を崇拝した。
私が非情な仙人を好んで書くのも、私の中の悪鬼羅刹が彼をして私の内面を暴露たらしめるからなのだろうし、それを美へと昇華することで、私は救済を描こうとするのだ。
それは決してハッピーエンドではない。仙人に人間の情愛は微塵も伝わらないし、彼は鳥を愛玩するように、気まぐれに人間を呼び寄せて、やがて飽きれば命を奪うのだ。
賢治は己の修羅相を弾じた。真正面から見つめ、描き、そして自己犠牲という形で昇華することで救いへと導いた。
しかし私にはまだその覚悟がない。むしろ己の醜さを美へと引き上げることで自己救済へとたどり着こうという安易な方法に拠っているのかもしれない。
おそらく私が私の醜さを美ではなく醜いものとして描けたとき道は開けるのだろうと思う。私にはまだその覚悟はないのだけども。
最後に何度目になるか分からないが、漱石の鈴木三重吉宛書簡を紹介しておく。
何度読んでも身につまされずにはいられない手紙だ。