広寒宮

アマチュア作家・雨伽詩音の活動報告その他諸々

文芸雑誌と詩歌について

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短歌と俳句を投稿するべく、角川俳句と短歌、短歌研究を買った。

俳句 2020年7月号 [雑誌] 雑誌『俳句』
 
短歌 2020年7月号 [雑誌] 雑誌『短歌』
 
短歌研究 2020年 07 月号 [雑誌]

短歌研究 2020年 07 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2020/06/22
  • メディア: 雑誌
 

 このうち角川俳句は以前から時々購読していた。

俳句の世界のあまりの狭さに愕然としてしまって、しばらく読まないでいたのだけれど、自分の俳句があまりにもワンパターンなので、もっと積極的にいろんな俳句に触れたいと思ったのだ。

また投稿も再開したいので、様々なバリエーションを持つ角川俳句ならば間口も広かろうということで手に取った。

あいにくと以前投稿したときには入選ならずだったが、もう少し粘ってみたい。

 

短歌の方は実は何冊も積んでいて、なかなか読めずにいるのだけれど、ここのところ短歌を詠むのが面白くて、先日短歌研究に投稿したこともあって手に取った。

evie-11.hatenablog.com

こちらもどの程度見込みがあるのかはわからない。

とある賞で佳作をとったときとはまったく違う、耽美主義な作風で投稿したので、なかなか厳しいかもしれない。

それでも塚本邦雄賞を持つ短歌研究に投稿してみたいという気持ちがあって、今回手元に迎えることにした。

果たして読んでみると写実的な短歌が並んでいて、ちょっと面食らってしまったのだけれど、これも時勢なのだと思えば致し方ないのかもしれない。

まだすべて読み終えたわけではないけれど、もう少し間口の広さが欲しいと思ってしまった。

私は根が楽観主義で享楽派なので、写実主義とはほど遠いところにいることを改めて思い知った。それもまたいい勉強になったのかもしれない。

 

ここのところは本を読む気力がなくて、あっちを読んだり、こっちを読んだりと節操がない。

そういう自分のことを好きになれずにいたのだけれど、それでも文芸雑誌というものは飽きさせない紙面作りになっているのか、先日は現代詩手帖5月号を読み終えた。

現代詩手帖2020年 5月号[雑誌]

現代詩手帖2020年 5月号[雑誌]

  • 発売日: 2020/04/28
  • メディア: 雑誌
 

 誌面に並んだ読者の投稿作品を見て、現代詩は私には到底投稿できないなと痛感したけども、それでも現代詩は読み手として単純に興味があるし、その面白さも少しずつわかってきた。

様々な特集やエッセイ、評論を読めるのも面白く、今後とも折に触れて購読してみたいと思っている。中でも清岡卓行のご子息のエッセイがあまりにも卓越していたので、読めてよかったと思う。

 

最近は朝吹真理子の父、朝吹亮二の詩に興味があって、今はなき荻窪の「ささま書店」で買った詩集を積んでいる。

朝吹亮二詩集 (現代詩文庫)

朝吹亮二詩集 (現代詩文庫)

  • 作者:朝吹 亮二
  • 発売日: 1992/04/10
  • メディア: 単行本
 

 

またTwitterのご本人のツイートを見かけて気になっているのが、岩倉文也の詩集だ。

あの夏ぼくは天使を見た (KITORA)

あの夏ぼくは天使を見た (KITORA)

  • 作者:岩倉 文也
  • 発売日: 2019/10/31
  • メディア: 単行本
 
傾いた夜空の下で

傾いた夜空の下で

  • 作者:岩倉文也
  • 発売日: 2018/09/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 こちらも余裕があればぜひ手元に迎えたい。

守るべきもの

投稿についてあれこれと考えていて、いろんなことを考えている今日このごろです。

本心ではやっぱり小説を投稿したい。

それでも、私はキャパシティに限界があって、専業主婦としての務めすら完璧にこなせていないこの状況で、果たして十万字にのぼる小説と向き合えるのだろうかと考えた時に、今すぐには難しいだろうなという結論に至りました。

持病も抱えているので、コンディションが良好な時の方が少ないほどで、それに加えて夢を追いつづけるのは無理があるなと。

今年の12月で30歳になるということもあり、その分焦りもありましたが、今は専業主婦としての自分のこともそれなりに誇りに思っているので、「作家になれないならこの人生はおしまいなんだ」という10代20代前半までのような焦りはあまりありません。

趣味として創作を楽しんだり、俳句や短歌を投稿したりしながら、専業主婦としての務めを果たすことが、今の私にとっては最善の道なのだと思っています。

 

それにしても女性が夢を追いつづけるということは並大抵のことではないなということを痛感しています。

女性という大きな括りで語っていいことではないのかもしれませんが、結婚を機に夢を諦める人は少なくないのだろうなと想像します。

少なくとも結婚によって、「私の夢は私ひとりの努力で達成すればいい」というフェーズは終わったのだなということに気づきました。

夫との夫婦生活と作家という夢を天秤にかけたときに、守るべきものは夫との生活であり、今の私にとって一番大切なものは、もはや夢ではないのだということにも。

結婚にはおのずと責任も伴いますし、それは保守寄りの思想の人間として、致し方のないことだとも思っています。

ただひとつ書いておきたいのは、上にも述べたように、私は夢を諦めるということを必ずしも深い絶望感を持って語っているわけではないということです。

 

前向きに捉えれば、同人誌は作り放題だし、自分のペースで好きなように創作と向き合うことができます。

それは主婦のみならず、持病を持つ人間としても、やはりどうしても必要なことなのかなと感じています。

短歌と俳句は投稿すると決めたので、そこに向かって努力することも、夢の続きを追うことにつながるはずです。

 

「いや、それでも小説を投稿したい」という気持ちになる日もふたたびめぐってくるかもしれません。そこは分かりませんが、夢を追いつづけるというのはなかなか苦しさを伴うものでもあり、いったんその呪縛から離れてもいいのかなと思っています。

言葉の身体性と必然性について

 

先日、海老名絢さんの『声を差し出す』という詩集を拝読しました。

booth.pm

驚いたのは、言葉の持つ身体性をここまで表現できるものなのかというところ。

それからしばらくいろんな人の作品を読んで、あらためて考えてみたいと思ったので、こうして筆を執ることにしました。

 

◆目次◆

 

 

言葉の身体性と必然性

複数の友人と話していて、「自分の文体が欲しい」という声をいくつか聞いたのですが、文体というのは、書き手の声そのものだと私は思っています。

どの語彙を選択して、どの言葉を選ばないのか。

日常生活においてもその選択は常に迫られていて、たとえば私は「まずい」という言葉は極力避けて「おいしくない」という言葉を使ったり、「寝こむ」という言葉は使わずに「臥せる」という言葉を用いたりします。

その基準はどこにあるかというと、自分の聴覚過敏に起因しているところがあって、聴覚にさわるような言葉はあまり使わないようにしています。

そうした言葉は己の身体に深く染みこんで、文章となって表れてきます。

誤った言葉の使い方をしていれば、それがそのまま反映することにもなりかねませんし、諸刃の刃とも云えますが、日頃から用いる言葉に気を配ることは何よりも欠かせないのだろうと感じます。

 

これは何も私に限ったことではなく、上にも紹介しているオカワダアキナさんの日記を拝読していても、

パンとか電話とか - 日々の記録

インプットってあんまり言いたくない。インプット・アウトプットって言いかた、便利だからやっちゃうことはあるけど、言いたくない言葉多いな。

 というところでハッとしたのでした。

おかさんの文章は、こちらの日記を拝見していても分かるように、「語り」を重視した文体です。強いて洗練を極めるというよりも、一見とりとめのないように見える「語り」の「芸」の世界の延長線上にありますが、その「語り」はおかさんご自身の語彙の選択の上に成り立っているということは云うまでもありません。

また「語り」は身体性を抜きにしては存在しえないことを考えると、おかさんご自身のさまざまな思想や経験、バックボーンが「語り」として結実していっているのだろうと拝察します。

 

おそらく言葉にこだわりを持つ人は少なからず「使いたい言葉」よりも多くの「使いたくない言葉」というものがあるのではないでしょうか。

その語彙の選択からすでに文体の構築ははじまっていて、私の場合は聴覚過敏に根ざしているので、言葉と言葉が触れ合って耳障りな音を立てないように文章を書きます。

 

それがもっとも明らかな形で表れたのが「山妖記」だったのでした。

kakuyomu.jp

目は見えずとも、四季折々に鳴く鳥の声や、春雨秋風に季節を感じ、もしこれが麓の国の帝であったならば、歌人に歌を詠ませて無聊ぶりょうを慰めただろうと思われた。

 あいにくと生来より山で育った私は歌のひとつも詠めぬのだが、琵琶の調べに乗せて節をつけてあてずっぽうに歌えば、幾分か心安らぐ心地がする。

 清らかな秋月の光もこの心までは届かずに、秋の夜風に唇で触れては音曲となってこぼれだすのだった。

 流麗と多くのレビューで評していただきましたが、文章の流れを構築するのはひとつひとつの言葉に他ならず、その言葉を用いるときに、己の血肉となるまで消化できていなければ、少なくともパッと出てくることはありません。

 

一語一句ごとに辞書を引きながら、あるいは他人の文章を参照しながら文章を書くというのは現実的ではありませんし、結局己の肉声として出てこない言葉を使っても、言葉だけが一人歩きしてしまって、おおよそ意味を捉えられなくなったり、前後の文脈にそぐわずに浮いてしまったりします。

そしてそうして浮いてしまって身体から離れてしまった言葉というものは、得てして読者に伝わるものです。

「言葉を調べて頭で書いている文章」「覚えたての言葉を使って書いている文章」というものはだいたい読めばわかります。

そうした言葉を使い続けて作品を仕上げるということは並大抵のことではなく、必ずほころびが生まれるからです。

前後の文脈を含めて完成された領域まで高めなければ、本当の意味でその文体をものにしたとは云えないのだと思います。

 

山妖記はおかげさまで次のようなレビューをいただきました。

kakuyomu.jp

なんと言っても地の文の濃さです。
本当に昔話を紐解いているような、初めから最後まで、全く崩れない美しい文章が深く深く読者を世界へと連れて行ってくれます。

ただし、この文体もまだまだ改良の余地は残されていますし、さらに文体のバリエーションを持たせたいと考えています。

山妖記のように古典調の文章ではなく、平易な文章、端的に伝わる文章であっても、より文章表現を磨いていきたいです。

 

校正の重要性

しかし本当に言葉の身体性を求めるというのなら、校正はどのように捉えるべきでしょうか。作者の肉声そのものが文体となるのなら、校正によって損なわれるものがあるのではないかという問いも当然生まれてくるでしょう。

しかし語彙の用い方に際して誤りがあれば、それは文体の構築以前の問題となりますし、校正の目的は身体性を削ぐことにあるのではなく、それをより的確に洗練させていくことにあります。

中学生の頃、吹奏楽部の指揮をしていた恩師が「鬼のように練習しなさい」といつもおっしゃっていましたが、我々は「鬼のように校正する」しかないのだと思います。

校正については以前こちらに書いたので、重複する部分は省きます。

evie-11.hatenablog.com

私の場合は小説が下手なので、短編を書いても、三校ほど赤入れをすることも少なくありません。

今回書いた「all the good girls go to hell」では徹底的に文章を見直しました。

 母が亡くなってすでに六年、この間りんは父が色に溺れ、寺に地獄絵を奉納しながらもふしだらな生活を送ってきたのを耐えしのんできた。十六歳の花ざかり、男を好くどころか嫌悪の色もあらわにして遠ざけてきたりんは、嫁入り先さえ決まっていない。
 後妻をもうけることもなく、日々数々の女たちを家に招き入れる父は、凛を厄介者と邪険に扱い、いい顔をするのは寺との絵のやりとりをする間だけだ。りんを使いに走らせることも常で、その間父は着流しを着くずして女の体に溺れ、気が向けば筆をとる。
 母がこのありさまを目の当たりにすれば、どんなに悲しむだろうと涙で枕をぬらしても甲斐はない。恥を忍んで僧を相手に窮状を訴えるのもはばかられて、りんは父の目をぬすみ、覚えた文字で日記をつづるのをせめてもの心のよりどころにしていた。
 恨みごとをつづっても読んでくれる者とていない。されども想いを言葉にすることは、少なからずりんの支えとなっていた。つたない女文字が並ぶ日記を文箱の底にしまって、りんは毎夜眠りにつく。涙が散って文字がにじんだところもあれば、怒声が筆の勢いにあらわれたところもある。
 いずれ一冊の本に綴じて、長屋の庭先で燃やしてしまおうと決めている。燃えて煙となって天に昇ってゆけば、きっと母の耳にも届くだろう。少女のいたいけな夢は、胸の内で少しずつはぐくまれてゆく。

結果的にはじめに書いた文章とはまた異なる文体の作品に仕上がりましたが、それでも校正における語彙の選択にも身体性が表れているということを考えると、これもまた私の肉体から発した言葉なのだろうと思います。

何よりも大事なのは誤りを正すことですが、そこからさらに新たな表現の可能性を開いてくれたという点において、改めて校正の大切さを思い知った作品となりました。

校正はしてもしすぎるということはまずないのだなということを痛感しました。

 

今後の文体について

しばらくは今書いている「ヴァニタスの系譜」と向き合うことになるので、「山妖記」とも「all the good girls go to hell」とも違う文体で書き続けていくつもりです。

現代小説の文体はまだまだ模索中です。いわゆる現代の純文学風のあか抜けた文章というのは難しいので、一朝一夕に身につくものではないなと痛感しています。

まだまだ模索が続くことになりそうです。

ただそこにも必ず「私の身体を伴う言葉 」というものが眠っているはずなので、しばらくはそれを模索しつつ、文章と向き合っていこうと考えています。

短歌を投稿しました

www.tankakenkyu.co.jp

 

短歌研究のうたう☆クラブに投稿しました。

お題がないと短歌を詠めないタイプの人間なので、俳句歳時記をぱらぱらめくって、「薔薇」を選びました。

以前佳作をいただいた短歌はわりと素直な詠みぶりだったので、最近のように脳筋耽美主義な短歌がどこまで通用するかは分からないのですが、塚本邦雄、葛原妙子の系譜もあるし、やるだけやってみようという気持ちです。

塚本邦雄も葛原妙子もそこまで量をこなして読めていないので、これからさらに読んでいかねばならないのですが。

ちなみに過去作はこちらでお読みいただけます。

kakuyomu.jp

 

先日友人と話をして、アラサーになって作風は今更変えられないから、自分の作風で勝負できるところを探すしかないという話をしました。

その「勝負できるところ」を私は掴みかねていて、小説を投稿しようと決心したり、同人でのんびりやろうと諦めたりを繰り返していていたのがここ数日で、それでもいつかは決心をして行動に移さないと何も変わらないよなと思いまして。

 

昨年は俳句と短歌、エッセイと小説を投稿しました。

いずれもほぼ一度きりだったので、まだなんとも云えないですが、短歌では佳作を、小説では最終選考まで残ることができました。

まだまだこれから投稿を重ねて精進していきたいです。

小説はすぐにというわけにはいきませんが、短歌や俳句なら普段からそれなりの量を詠んでいて、作歴もちょっとずつ長くなってきたので、そろそろ投稿してもいいのかなと。

そういうわけで短歌研究と短歌、俳句をそれぞれ予約しました。

 まだまだ至らない部分もありますが、少しでも勉強を重ねていければいいなと思います。

 

また先日せっかくフォロワーの磯崎愛さんから「牡丹」というお題で俳句を詠ませていただいたこともあり、投稿した短歌を詠んでいて、短歌でも同じお題で詠んでみたいという気持ちが湧いてきました。

 

どちらかというと私は七七が蛇足な気がしていて、俳句の方が好みなのですが、短歌には短歌の良さもあって、それは世界観を表現しやすいということに尽きると思います。

七七があることでより世界が具象性を持つというか。

たとえば上の過去作の中からお気に入りを選ぶならば、

冥界の涯なる氷河堕天使の眠る氷塊数多溶けをり

 という拙歌があるのですが、こういう表現はなかなか俳句ではしづらいです。

 

まだまだ私の腕がつたないということもあるのでしょうが、より対象を広角レンズで観られるのが短歌なのではないかなと感じます。

俳句は接写するというのが基本になるので、私のように広角で物事を切り取るのが好きなタイプだと、どうしても作品が似通って来てしまいます。

人様の作品を読んでいると、短歌も接写しようと思えばいくらでも接写できる形式を持っていると感じますが、私はあくまでも広角で撮るのが好きです。

 

それから短歌は連作の形式を取りやすいのも利点ですね。

最近はうさうららさん主宰の短歌ネプリ「短歌ハッシュ」に参加した拙歌を元に、連作を詠むことが多いです。

金糸雀歌声奪ひし少年のファルセット愛でし溥儀ラストエンペラー

 

少年や金の鎖に囚はれり纏足の指に蝶々の刺青しせい

 

少年や金魚となりし縁日に掬ひ囲はれ城傾けり

 

少年や金環日食仰ぎたり去勢せしおみ足に額づき

 

金糸にて刺繍せるきぬ纏ひたる聖少年の花園に鳥 

 このように円環型の連作を組むこともできますし、ひとつの歌から別の歌が派生して生まれてくるというのは、小説を書く人間としても面白いなぁと感じます。

短歌の魅力は尽きません。

 

俳句の方ももっとがんばりたいなと思っていて、いずれこの句集の中から選んだものを、同人誌の句集として頒布したいなと思っています。

kakuyomu.jp

一年がかりで詠むつもりなので、来年あたりに形になればと考えています。

中でも気に入っているのは一番はじめの「暗黒神話」です。

襖絵に閉ざされ臥せる妹のくち

 

月神の殺めし子ら満つ冬館

 

兎狩酒宴に酔へる美青年

 

悪食の美徳賛美し牡蠣剥く夜

 

凍死せる兄の指なり紫水晶

 

こういうダークで暗黒メルヘンな作風が好きなので、本当はもっともっと澁澤とか読まなきゃならないんですが、積みっぱなしのものも多いです。

昨年は『バビロンの架空園』を読んで、シバの女王の庭園に惹かれたのをなんとなく覚えています。

「澁澤はとりとめのない眉唾話をどんどん繰り広げるところに面白さがあるな」と感じられるようになったのは、大学を出てからのことで、それまではガチガチの史学学徒だったので、眉唾話がどうにも受けつけなかったのでした。根が真面目すぎるのでしょうね。

それから『フローラ逍遥』の鉱物的作家と植物的作家がいるという話も興味深く読んだ気がします。

私は完全に鉱物的物書きに属するのかなと思っています。

 

そういう本からもたらされる知識も糧になりますが、私の一番の糧はビジュアルにあるなと痛感しているのがここ最近のことで、先日はスズキエイミさんのことを書きましたが、西條冴子さんのお人形や、松井冬子さんの日本画など、現代の耽美派な絵画や美術には相当に影響を受けています。

彼女たちの作品集もいずれお迎えしたいと思っているところです。

【ヴァニタスの系譜】ディスコミュニケーションの滑稽さと美について

ここ数日体調が優れないので「ヴァニタスの系譜」の執筆を再開しました。

 うまく泣けないので、泣きたいという気持ちをうまく発散させる方法が私には小説しかなくて、この小説から否応にも逃れられないなぁという気持ちで向き合っています。

 

「発語することの困難さ」というのは私の最近のテーマなんですが、それを一番表現できるのがこの小説だなと痛感しています。

 

evie-11.hatenablog.com

 

このテーマは、最近書いた掌編「all the good girls go to hell」にもこめました。

evie-11.hatenablog.com

主題ではなく、あくまでも要素のひとつとして入れているだけなので、どこまで読み取っていただけるかはわかりませんが、読者の方にゆだねる以上は、ご自由に読んでいただければと思います。

 

形を変え、品を変えて表現できるテーマだと思うので、今後とも何かしらの場面で書くことになるのだろうなと考えています。

コミュニケーションというものは小説の根幹をなす要素のひとつなので、そこに何らかの障害が生まれるということは、世の中のどんな小説にも共通する要素だと思います。

たとえば泉鏡花の「海神別荘」がいい例で、あれは人間と人外のディスコミュニケーションを描いているわけですが、会話がすれ違ったり、意思の疎通がうまく取れない様子って、程度の差こそあれ誰にでもあると思うんですよね。

海神別荘・他二篇 (岩波文庫)

海神別荘・他二篇 (岩波文庫)

  • 作者:泉 鏡花
  • 発売日: 1994/04/18
  • メディア: 文庫
 

 それがやや極端な形で表象されたのがこの「海神別荘」という戯曲で、極端な形で表れると物語として面白いよなぁと感じます。

実際に生活して困難を抱えている身からしてみれば、とても面白がってはいられないのですが、客観視してデフォルメしてみると、けっこう滑稽だったり、逆に鏡花のように美の領域にまで高めることができるのではないかなと。

 

「ヴァニタスの系譜」は滑稽さというよりは美に向かう志向性の方が強い作品だと私は思っているのですが、以前とある場所で私の俳句を読んでいただいたときに

「兄は次はどんなひどい目に遭うんだろう、妹は次はどんな場所で臥せるんだろう、次はどんな貝を剥くんだろうというおかしみを感じる」

と評してくださった方がいて、そういう見方もあるのかと目から鱗でした。

kakuyomu.jp


これは状況のシュールさが面白さとして感じられた例だとは思いますが、ある意味で詠み手と受け手のディスコミュニケーションがもたらしたおかしみなのだろうなと感じます。意図せぬところで笑いを取ってしまったというか。

本人は至って真剣に詠んでいるのですが、たしかに「あらゆる種類の貝を剥きまくる」「わけもなくひどい目に遭い続ける兄」「理由もわからず年中あらゆるシチュエーションで臥せる妹」の図というのは面白いと感じるのかもしれませんね。

 

美と滑稽さは隣接することもあるのかなというのは、スズキエイミさんという方のコラージュ作品を拝見していても感じることです。

 

 

唯美的というよりはややグロテスクで、かわいらしくて、ちょっとおかしみがあるんですよね。それはコラージュという作風の特性ゆえのものだろうなと感じています。

元の絵とコラージュ素材の間にあるギャップから生まれてくるものなのだろうなと。

 

この関係を上のコミュニケーションの問題に当てはめることもできるかもしれません。

最近それまでほとんど観ていなかったお笑いをyoutubeで観ることもあるのですが、芸人さんのコミュニケーションも、基本的にはコミュニケーションの間にあるギャップが面白いのだろうなと思います。

私はすゑひろがりずが好きで、youtubeで観たりするのですが、古語を用いることで「言葉が通じるようで通じない」というところをうまく突いているなぁと感じます。

ある面でシリアスな葛藤をもたらし、また別の場面では滑稽さをもたらし、極端な方向に昇華すれば美の境地にも達する。それが「言葉の通じなさ」の面白さだと感じます。

 

ちなみにスズキエイミさんのコラージュ作品のオマージュの短歌を短歌ハッシュに寄稿したので、そちらもぜひ出力してご覧ください。

これまで同様、余裕があれば、連作としてまた短歌を詠んで、こちらにUPしたいと考えています。

kakuyomu.jp


 

all the good girls go to hell

もともとリアルのイベントに折り本を出展しようと思っていたのですが、コロナ禍の影響で中止になってしまったので、Web開催となったおうちdeちょこ文に参加しようと思っています。

chocottobun.wixsite.com

 

◆目次◆

 

作品について 

おうちdeちょこ文の〆切が6/21と迫る中、6/10ごろからネタ出しをして書いていました。

shinchoku.net

タイトルのall the good girls go to hellはBillie Eilishの同題曲から取りました。

 

奇しくも不倫が世間を賑わせることになるタイミングで、この作品を書くことになってしまい、またしてもセンシティブなラインすれすれになりました……。決して意図したことではないのですが。

一応内容を紹介しておくと、母を亡くし、様々な女と関係を持つ地獄絵師の父の元で暮らす少女・りんが、とある経緯を経て地獄のような日々から脱して尼僧になるというお話です。

 

全体で3000字弱の掌編になります。

構造としてはいつものことながら序破急を踏まえていて、宮沢賢治「永訣の朝」のオマージュや、日本最古の仏教説話集『日本霊異記』のオマージュが入っています。

新編 宮沢賢治詩集 (新潮文庫)

新編 宮沢賢治詩集 (新潮文庫)

 
日本霊異記 (新日本古典文学大系 30)

日本霊異記 (新日本古典文学大系 30)

 

 日本霊異記は岩波全集本を買おう買おうと思ってまだ買えていないので、そろそろ恩師に(概念上の意味で)叱られそうです。

もともとゼミで日本霊異記を講読していたということもあって、印象深い話がいくつもあり、それをベースにこの物語を組み立てようと考えたのでした。 

 

参考資料

参考資料として参照したサイトと、本当は読まなければならなかったものをいくつか載せておきます。

 

地獄絵

私は主に過去に訪ねた美術館の展示とWEBで参照したのですが、その成立の背景なども本を通じてインプットできていれば尚良かったなと思います。この辺りは参考になりそうですね。

図説 地獄絵の世界 (ふくろうの本/日本の文化)

図説 地獄絵の世界 (ふくろうの本/日本の文化)

  • 作者:小栗栖 健治
  • 発売日: 2013/07/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
地獄絵 (ビジュアル選書)

地獄絵 (ビジュアル選書)

  • 発売日: 2011/04/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
日本人と地獄 (講談社学術文庫)

日本人と地獄 (講談社学術文庫)

 

 

 

 

地獄の描写
往生要集〈上〉 (岩波文庫)

往生要集〈上〉 (岩波文庫)

  • 作者:源信
  • 発売日: 2003/05/16
  • メディア: 文庫
 
往生要集〈下〉 (岩波文庫)

往生要集〈下〉 (岩波文庫)

  • 作者:源信
  • 発売日: 2003/05/16
  • メディア: 文庫
 

地獄の箇所の描写の出典として読んでおきたかった本です。

今回は21日〆切ということで時間がなく、複数のサイトを辿って、ほぼそのまま原文を引用しているサイトを参照しましたが、元史学学徒としてはあるまじき行為です。はい。 原典に当たるのは大事です。

 

御仏の描写

intojapanwaraku.com

地蔵菩薩の衣の名前を調べるのに参照。

和樂は信頼できる美術雑誌なので、まず間違いないだろうということで。

本当はこういうガイドブックが一冊手元にあると便利かなと思います。

美術ガイド 新 全国寺社・仏像ガイド

美術ガイド 新 全国寺社・仏像ガイド

  • 発売日: 2006/02/16
  • メディア: 単行本
 

 

江戸時代の女流日記文学

koki-bo.world.coocan.jp

www.let.osaka-u.ac.jp

ヒロインが日記を書くシーンが重要なファクターを占めているので、江戸時代の女性が日記を書いていたという史実を確認する程度に参照。

 調べてみるとこういう資料もあるようです。

近世の女旅日記事典

近世の女旅日記事典

  • 作者:柴 桂子
  • 発売日: 2005/09/01
  • メディア: 単行本
 

 

 校正で気がけたこと

これは備忘録的にまとめておきます。

・指示語チェック

あの、その、この、それ、これ、など多用していないかどうかチェックしました。

人の文章を校正するときも、まずこれは最低限やります。

多用しているとどうしてもこなれない文章になってしまうので、どうしても必要なところだけ残していますが、今回はさほど赤が入ることはありませんでした。

 

・語尾チェック

同じ表現の繰り返しなど、単調になっていないかチェック。これは初稿の段階でクリアできていました。いつものようにリズム感をつけた文体はさほど意識しなかったので、単調になっているのではと危惧していましたが、いい具合にリズム感ができていたので、ここは問題ないかなと。

 

・動作に関する語のチェック

人の校正をしていて気になるところその二。「見る」「言う」など、書く必要のない動作に関して言葉を費やしていないかチェックしました。ここもおおむね初稿の段階でクリアしていたので、さほど気になるところはありませんでしたが、より洗練させるために表現を変えた箇所もありました。

 

・漢字を開くか否か

今回一番気を遣ったのがこの判断で、初稿の段階では文章が真っ黒だったので、大幅に漢字を開きました。少女が主人公ということもあり、また時代モノということもあって、和語を大事にしたいという気持ちがあってのことです。

和語と漢語の扱いについては谷崎潤一郎文章読本』を念頭において行いました。

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

 

和語を意識して、二字熟語の漢語は和語に直し、四字熟語は極力使わないようにしました。

仏道修行」→「修行」、「箇所」→「ところ」など。

それからルビが必要になったり、やや読みづらい漢字はほぼ開きました。

「綴る」→「つづる」、 「拙い」→「つたない」、「憚る」→「はばかる」など。

また漢字が続くところはいくつか開きました。

「着崩す」→「着くずす」、「花盛り」→「花ざかり」など。

 

・改行を増やすか否か

特に序破急の序の部分が詰まっていたので、だいぶ改行しました。

あまり改行しすぎるのは好きではないのですが、時代モノを描いた皆川博子『妖恋』は思い切った改行をしていたので、いくら文章にこだわりがあっても読みやすいということは大事だろうということで。

妖恋 PHP文芸文庫

妖恋 PHP文芸文庫

 

 特に今回は初めて出展するイベントということで、はじめて出会うお客様は読みづらい文章を読む気にはなれないだろうなと思います。

またうさうららさん主宰の手製本アンソロジーに寄稿させていただいた、江戸時代が舞台の掌編「墨絵の猫」でも、行間が詰まっていると読みづらいということを痛感したという経験もありました。

kakuyomu.jp

執筆の段階では行間をひたすら詰めて書く方が好きなのですが、それを「解凍」して読者に提示するということは、どうしても必要なのかなと感じます。

それも含めて作品を公開するということにつながるのではないかなと。

 

・語彙のチェック

より適切な表現を用いているかどうか。最終段階で赤入れをしました。

語彙にこだわりすぎるとキリがないので、今回は最低限「これはおかしいな」という部分を直しました。「心やすらかに生きよ」→「すこやかに生きよ」など。

 

 

これほど段階を踏んで徹底的に校正ができるのは掌編ならではで、とてもいい練習になったと感じています。

今後ともこういう手順を踏んで校正に励んでいきたいです。

ひとり創作会議

先日友人とZoom飲みをして、いろんなことを考えました。

話題は主に創作のこと。

 

今回は自分の志向性や作品の傾向に関する批評をいただきました。

友人から指摘されたのは

1.山尾悠子的方向性

2.上橋菜穂子的方向性

です。

これに加えて、個人的に考えた

3.歴史小説

4.エンタメ異世界ファンタジー×BL小説

について考えてみます。

 

1.山尾悠子的方向性

こちらはこれまでにも周囲の複数の人々に勧められました。

増補 夢の遠近法: 初期作品選 (ちくま文庫)

増補 夢の遠近法: 初期作品選 (ちくま文庫)

  • 作者:山尾 悠子
  • 発売日: 2014/11/10
  • メディア: 文庫
 

別の共通の友人からは「第二の山尾悠子になってください」と云われましたし、夫からは「あなたは特装本を出すような人でしょう」とも云われました。

私は自分ではそれなりに起伏の激しい小説を書いているつもりなのですが、友人の目から見るとどうやらそうではないみたいです。自分の作品を客観視できていないのかもしれません。

幻想的な要素は私の小説には欠かせない部分ではあるので、そこに徹頭徹尾徹するならば、そうした世界観の構築は比較的近道なのかもしれません。

 

どうにも抗えない序破急」という私の物語構造の特性を考えれば、序の部分をかなり引っ張って、時間の経過を千年単位でいじるなど、破と急の部分をかなり極端な方向に持っていけば、ある程度意味の世界から離れることもできるかもしれません。

またこの方向性だと自分の強みの文体を十全に活かせます。

その点では魅力的で、今の自分の持っている力の範囲である程度のところまでは進めるかもしれません。プロになれるかどうかは分かりませんが。

 

プロになるにしても、この志向性だと、どのジャンルの新人賞に投稿すればいいのかよくわからないのが難点です。

山尾悠子は「今自分がアマチュアだったら、現代詩からプロの道に入っただろう」と現代詩手帖に書いていましたが、いずれにせよ狭き門であることに変わりはないでしょう。

現代詩手帖 2019年 07 月号 [雑誌]

現代詩手帖 2019年 07 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2019/06/28
  • メディア: 雑誌
 

 とはいえ私にとって一番の近道は結局のところ山尾悠子的方向性にあるのだと、改めて思います。

今のところ温めているネタもあるので、これをベストな形で活かせるのは、この山尾悠子的方向性だろうなと感じています。

山尾悠子のルーツは泉鏡花谷崎潤一郎だそうなので、そうしたルーツが近いところもこの方向性が妥当と考える理由のひとつです。

 

具体的に書きたい作品のことを示すと、拙作「翠の鳥」のスピンオフ作品を書くつもりです。

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本編ではちょっとしか登場しないのですが、この作品に登場する「帝」について書きたいという想いは以前からあったので、それを形にしたいと思っています。

詳しくはネタバレになるので語りませんが、自分が抱えている本質的なテーマをこの帝に重ねたいと思っています。

 

山尾悠子的方向性を志向する以上は、山尾悠子は全作品読むのみならず、近現代、あるいは古典にまで及ぶ幻想文学や詩歌全般など、広く読む必要が出てきます。

また「翠の鳥」の舞台は和漢折衷とはいえほぼ平安時代なので、源氏物語を中心とした平安文学や、平安時代関係の資料も必須になります。

これに関しては元々興味関心のある分野ですし、これまでやってきたこととそう変わらないので、あまり苦にならないだろうなとは思いますし、方向性や自分なりの方法を掴めれば早いかなと考えています。

 

2.上橋菜穂子的方向性

 いわゆる物語の構造を徹頭徹尾緻密に組み立てて、世界観の構築を細部に至るまで徹底させて、神話的要素を物語に織り込めば、そういう方向性になるということでした。

ちなみにゼミ教授から「上橋菜穂子さんのような作家になってください」と無茶ぶりされたのもいい思い出です。

 

ただしこの方向性を目指すならば、今持っている自分の力では多分に力不足なので、多大な量の勉強と、おそらく今後5〜10年ほどの研鑽が必要になるかと思います。

少なくとも今の私には到底無理です。

まず体力的に厳しいと云わざるを得ません。体調のコンディションに波があるので、コンスタントに地道かつ広範囲のジャンルにわたって勉強を続けながら小説を書くというのは、あまり現実的ではありません。

 

ZOOM飲みでは上橋菜穂子的方向性の方がいいのではないかと話しましたが、よくよく振り返って、自分の最近書いてきたものを顧みても、そうたやすくはないぞ、と気づかされます。

とにかく私はできるだけ最短ルートで作家になりたいので、そのためなら手段を選ばないつもりです。

 

 

個人的に考えた方向性としては

3.歴史小説

これは前にもガラシャを書きたいとこちらにも書きました。

歴史小説では資料に寄りすぎて、前にとある人に「レポートのようだ」と云われ、手痛い失敗をしているので、同じ轍を踏みたくなくて、時代モノの掌編や散文詩を何編か書いています。

kakuyomu.jp

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今書いていて、いずれおうちdeちょこ文に寄稿しようと思っている小説も時代小説です。

初稿を書き上げて校正をしているところですが、自分の持ち味の文体で書いていてとても書きやすいので、方向性としては間違っていないと思います。

 

ただ、昨年からずっと抱えていたネタにも関わらず、ここまで来てしまったので、いかんせん私の中から確固とした動機が失われつつあるのも確かで、それをどのように確かなものにしていくのかが課題だなと思っています。

 

コロナ禍のさなかでは聖書の詩篇を読むなど、キリスト教に救いを求める部分が強かったのですが、あれほど切実に聖書を求めたときの心持ちを保ちつづけるというのはなかなか難しいことです。

それは耐えがたい困難に直面しつづけるということを同時に意味しますし、私はシリアスな状況に耐えられるほど心が丈夫ではないので、その「切実さ」から離れてなお「他にどうしようもないからガラシャを書く」という動機を得られなければ、少なくとも書こうという心持ちにはなれません。

「いいネタがあるから書ける」というタイプではないのです。

 

ヒントとして、自分が女性として、あるいはキリスト教的規範を理想のひとつとして生きる上で、依然として対峙している「とある困難」をガラシャの身の上に見出すということは可能だと思うので、いずれ書くことになるかもしれませんが、せめてもう少し彼女のキャラクター像の構築には時間をかけるべきだと再考しました。

 

ただし、最も具体的なプロットに沿いやすく、またビジョンがはっきりしているのがこのガラシャという題材であることに変わりはありません。

引き続き深い思索と勉強を通じて、彼女の生涯について学び、あるいは考える機会を積極的に持っていきたいと思っています。

 

4.エンタメ異世界ファンタジー×BL小説

これは昨夜Twitterで荒ぶってしまったことなのですが、まず自分の作風を顧みろという話です。

たとえば長野まゆみ『雪花草子』は私のBL小説のバイブルなんですが、たぶんこういう作風なら書けます。

長野まゆみ幻想文学のジャンルでくくられる作家です。そういうジャンルの中でBLという関係性を描くならまだいい。 

雪花草子 (新潮文庫)

雪花草子 (新潮文庫)

 

でも完全に恋愛がメインだったり、ふたりの属性がはっきりとテンプレに分類されるようなタイプはまず書けないと思います。

自分の理想のBLの関係性はあるけれど、それはどちらかというとブロマンスに近かったり、必ずしも性愛そのものと結びつかない部分もあって、葛藤することになると思います。

性愛を否定するわけではないのですが、書くならあくまでも「耽美」というジャンルのくくりの中でしか書けないだろうなと。おそらく直接的な言葉で性愛の表現をすることは、私にとって大きな苦痛を伴うことになるというのは感じているので、これは考えなかったことにします。

 

ただ、幻想文学のジャンルでBLを書ければ、それはそれで新たな需要を開拓するということはできるかもしれません。

それはかなり限られたところにしか届かないでしょうが、少なくとも長野まゆみファンをどの読書系SNSTwitter含む)でも見かけることを考えると、需要はわずかながらでもあると云えるかもしれません。

 

 

以上、考えてみて、山尾悠子的方向性で攻める方向と、歴史小説を書くという方向で考えるのが妥当だろうなという結論に達しました。

その分必要な資料も変わってきて、給付金の使い道(本にほぼ全振りする予定)が変わってくるので、こうして慎重に将来の方向性について考えざるを得ないのですが、ひとまず両者に必要な本は買ってしまおうと思っています。