広寒宮

アマチュア作家・雨伽詩音の活動報告その他諸々

今、そこにあるリアル

昨年の秋頃からだったか、小説というものが読めなくなってしまった。小説なりアニメなり映画なり、フィクションの世界でわくわくすること、心躍ることに対して疲れてしまうという意識が頭をもたげてきてしまい、ドキドキしたくない、不安になりたくないという気持ちが加わって、フィクションを遠ざけるようになった。

病院で診察を受けると、診断名はうつだった。そりゃわくわくしたくもなくなるわけだ、と思ったが、かといって小説を読まないということも私の心を苛んだ。それまで苦もなく読めていたものが読めなくなるという云いようのない苦痛は耐え難いものがある。


TLを見れば読んだ本の感想が絶え間なく流れてきて、本を読めない私を責めているようで、TLをたどるのもつらくなった。そのうちTLをほとんど追わなくなったが、だからといって本が読めないという事案が解決するわけでもない。

そうしたフィクションへの抵抗感とともに私を絶えず困らせていたのが「寂しい」という感情だった。去年の秋頃まではあまり感じていなかったのに、日がな一日寂しさを持て余すことが多くなり、孤独感はますます病を篤くした。


そうしたことを昨日彼と話した。すると「本を読むことは本と自分との会話だと俺は思っている」という言葉を告げられた。「人と話すのとはまた違うけれど、本を読むことだって話すことだと思うよ」と。
それまで言葉を受容するだけだった本というメディアが、このとき再び私の無二の友として現れた瞬間だった。

 

そしてそれから彼が席を外している間に、無性に現代小説を読みたいと思った。
これまで現代という時代を忌避し、疎ましく思ってきたのに、登場人物と同じ世界に生きているということがどんなに心をなぐさめてくれるだろうと初めて思い至った。

私の頭に、学生時代の後輩の姿が浮かんでいた。彼はやはりこの世界で生きるにはあまりに不器用な人間だったけども、彼がちょうどそのようなことを私に云ったことがあった。
「ファンタジーよりも現代小説が好きなんです。自分の世界の延長に物語がある気がして」と。
そのとき私は彼の気持ちを十二分に理解することはできなかったけれど、今ならよく分かる気がする。

幼少期からもっぱらファンタジーを読んできた私にとって、現代とは空疎な時代に思えてならなかった。しかしその空疎な時代をいかに生きるかという姿を見てみたいと今は感じる。現代を生きるということの壁にぶつかってしまったからこそ、同じ思いをしながら生きている人間のありようを知りたい。


恋愛ひとつをとってみても、現代は多様性にあふれている。どうせならどうしようもない恋愛小説を読んでみたい。どうしようもない恋なんて、近代文学を読めばいくらでも出てくるけども、あくまでも現代を生きる人間がどのような恋をしてやぶれかぶれになったり、道を踏み外したり、思い悩んであくせくしたりするのかを見てみたい。トントン拍子に行かない方がおもしろい。
同年代の女性が主人公の物語も読みたいと思う。冴えないアラサーがいかに生きているのかを、エッセイではなく小説で読んでみたい。今はちょうど村田沙耶香なども出てきているし、そういう小説には事欠かないだろう。

 

今までは考えもしなかったことだが、これまでに抱いていた現代への苦手意識からようやく私は解放されようとしているのかもしれない。現代を生きるという壁にぶつかってはじめて、現代というものを見つめ直す糸口を掴めた気がする。それは自分自身を見つめ直すこと、そしてこの社会の一員としての自分というものを問いただすことに他ならない。
心地がいいだけの読書ではなくなるだろうけども、そうしたときはじめて私は現代という時代を生きることができるのではないかと思う。


そして図書館で本を借りるのではなく、古本でも良いから本を買って読みたい。振り返ったときに、「あのつらい時期をこの本たちと乗り切った」と思えるように。