広寒宮

アマチュア作家・雨伽詩音の活動報告その他諸々

再読するということ

本を再読するのが好きだ。気に入った本は一年のうちに何度も何度も再読して、文章が体に染みつくまで読む。

 

鏡花や谷崎などはその筆頭で、鏡花に関しては忌日には毎年絶筆の『縷紅新草』を読んでいるし、「夜叉ヶ池」「眉かくしの霊」なども何度となく読んでいる。

縷紅新草

縷紅新草

 
夜叉ヶ池

夜叉ヶ池

 
眉かくしの霊

眉かくしの霊

 

これらの物語は、いずれも虐げられたヒロインが死後、妖怪となり、幽霊となって美へと昇華されるという筋立てになっているのだが、幼少期から不遇の時代を過ごしてきた私にとってはそれが一種の救済の物語となって目の前に表れるのだ。

鏡花の託した祈りが時代を超えて私の胸に幾度となく響きわたるのを聞くのは、心が洗われる心地がする。

 

 

谷崎は「蘆刈」を繰り返し読んでいる。昨年の秋には久しぶりに『春琴抄』を読み返した。

蘆刈

蘆刈

 

 

春琴抄 (新潮文庫)

春琴抄 (新潮文庫)

 

 すると、これまで見えてこなかった文豪たちの嗜好やこだわり、理想とする美が見えてくる。

蘆刈」では児戯に等しかった支配-非支配の関係が、『春琴抄』では明確に描かれる。どうにもその激しさが私は不得手で、春琴という驕慢なキャラクターが好きになれずにいたのだけれど、そこにはお遊さまのような墨をぼかしたような幽玄の美はなく、確固たる支配者としての盲目の美女が鎮座している。

彼女を崇め奉る佐助の心は私にはまったくわからない。ただ盲人同士の愛というものがこの上もなくエロティックで、それはまさに軟体動物同士が交わるような愛なのだろうと思うとぞくりとする。

春琴抄は春琴の目線で読めばそこそこ楽しめはするのだが、やはり苦労というものを露程にも知らず、世間から隔絶されたところで永遠の美を慈しむ「蘆刈」のお遊さまの方が私は好きだ。

 

最近の作家だと皆川博子をよく再読する。『蝶』は三度ほど読んだし、『花闇』は二度読んだ。『妖恋』も二度ほど。

蝶 (文春文庫)

蝶 (文春文庫)

 

特に『蝶』の「遺し文」が私は特に好きで、皆川博子の描く狂女は妖艶で好ましいのだけれども、再読するたびに彼女の妖しさ・悲しさがいっそう引き立つさまは、何ものにも代え難い喜びをもたらしてくれる。

花闇 (河出文庫)

花闇 (河出文庫)

 

花闇はなんと云っても頽れてゆく澤村田之助の姿がいい。爛熟した花のような姿に魅せられる。年初は日本の伝統芸能に触れることにしているので、昨年のはじめに再読したのだが、未だにあの耽美にして壮絶な澤村田之助の生き様は忘れがたい。歴史小説を書くということは一筋縄ではいかないが、それだけに皆川博子澤村田之助への愛を感じだ一冊だった。

妖恋 PHP文芸文庫

妖恋 PHP文芸文庫

 

『妖恋』については昨年の一月に読んだきりなので読書メーターから感想を転載する。

改めて読んでみると、「螢沢」「妖恋」には、おばけずきで妖女を慕う、泉鏡花の影響が色濃く出ていると感じた。前回読んだ時には「十六夜鏡」に魅せられたけども、今回推したいのは「螢沢」。姉様がお優しくも妖しくて美しい。「濡れ千鳥」は同じ変化朝顔をモチーフとした『みだれ英泉』を読んだばかりだったので、この花に魅了された皆川博子の心の琴線に触れた気がしてうれしくなった。

そう男女のあわいにある美少女の物語『十六夜鏡』も 私の心を強く惹きつけた。

またぜひ再読したい一冊だ。

こうして自分が好ましいと思う物語を何度も味わう幸福は格別なものがある。

 

それと同時に文体を学ぶという意味でも再読は大いに寄与してくれる。

私が今の文体にたどり着いたのも鏡花や谷崎を何度も再読したからだし、ますます磨いていきたいと思っている。

繰り返し同じ本を読むことで、細部まで己の血肉に染みこませることができると私は信じている。

 

再読するにあたって、なにも必ず手元になければならないという法はない。

皆川博子の『蝶』も『妖恋』も図書館で借りたものだし、いずれご縁があれば自宅の本棚に収まるだろう、ぐらいの心づもりでいる。

 

物語を何度でも思い出すために再読する喜びは、ひょっとしたら新たな物語と出会う喜びよりも、私にとっては大きいのかもしれない。