広寒宮

アマチュア作家・雨伽詩音の活動報告その他諸々

水蜜桃をもとめて

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過日、注文していた本が届いた。

ひとつは塚本邦雄、そして赤江瀑だ。


塚本邦雄を手に入れようと思ったきっかけは、竹雀氏と交わした創作トークの中で、自分が小説に映像美を求めていること、そしてその原点が和歌にあるということを突きつけられたからだった。あの夜は随分と議論が白熱して、一瞬即発の緊張感があったのだけれど、その隙あらば首を搔き切るという互いの姿勢が実を結んだのがこの塚本邦雄の本たちだったというわけだ。


まだまだ私の小説には至らない点がたくさんある。だからこそ自分の強みを生かせるようにと今回手に入れるに至った次第だ。

そしてその数日後、毎回愛聴している「ねこのしっぽカエルの手」の「受け継がれるもの」という回で、ベニシアさんが和歌の家元・冷泉家を訪ねた折に、冷泉家の当主が「歌というものは目の前の景物を詠むのではない。おぼろ月と云ったときに春の月影を思い出す。それが和歌の心」という旨のことを語っていた。

これはまさに私が詩を書き、俳句を詠むときの心そのものではないかと気づき、もっと和歌の勉強をせねばと心に決めた。


赤江瀑の方はというと、元々毛嫌いしていたのだが、彼から本を譲られたこともあり、また過去に不思議な縁を感じていた作家でもあって、図書館で借りて読んだ『花夜叉殺し』の表題作がなんとなく記憶にとどまって、先日インスパイアされた詩を書いたので、たとえ嫌いでも糧になればとお迎えした。

きっと嫌いなら嫌いで、何かしら心に響くものはあるのだ。その響き方が不協和音となって耳にさわるから遠ざけてしまうけれど、忘れっぽい私にとって、一年前以上に読んだ小説がここまで頭の片隅に残っているということは、何かしらの縁があるのだろうと思う。

あの皆川博子も『花闇』を書くにあたっては赤江瀑の歌舞伎ものの小説を下敷きにしたと云うし、決して悪い方には傾かないだろうという思いもあった。 

花闇 (河出文庫)

花闇 (河出文庫)

 

 

 

そもそもこの文章を書こうと思ったのは、かもめメンバーでもあり、プライベートの友人でもある御影あやさんのこのエッセイに触発されたからでもある。

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あれは去年の夏頃だっただろうか「文章の世界ははてしないですけれど、ともに精進してまいりましょうね」ということを、同志の詩音氏に言われたおぼえがある。

とわざわざ私の言葉を引用してくださったので、これは何か言葉を返さなければと思ったのがきっかけだったのだ。


それにつけても創作というものは青天井もいいところで、上を目指せど目指せど一向にたどり着ける気配がない。世に名だたる文豪たちにははるかに及ばず、地べたを這い回って少しでも高い梢に実る桃の実を得ようとするけども、手を伸ばしても届かない。ならばと踏み台を用意しようとしても、踏み台の脚すらおぼつかなかったり、ぐらぐらと揺れて倒れたりする。

それでも蒼穹の果てに水蜜桃が実っているのなら手を伸ばすしかないのだ。むさぼるように本を読み、何作もの駄作没作を抱えながら研鑽を積むしかないのだ。そこに早道はない。だが遠回りをすればするほど、道中でかけがえのない宝を得ることもある。むろん途中で行き倒れたり、足をくじいて進めないこともある。だが私はいつか自分だけの水蜜桃をこの手に入れたい。

青天井だからさらなる高みを目指すことができる。それが私の闘争心をいよいよ掻き立てるのだ。現状に甘んじず、常に上を目指すという意識に駆り立てられなければ創作は停滞の一途をたどってしまう。

ここ一年の創作を振り返って、なかなか新たな一歩を踏み出せない自分に気づいたこともまた事実だ。小説はいくつか書いてきたけれど、まだまだ満足はしていない。より良いもの、より美しいものを求める心がある限り、私が筆を折ることはない。

水蜜桃の影は今は影も形も見えない。先達には遥か及ばず、足元の踏み台もまだ定まらない。だがたとえ無謀な夢だとしても、私は踏み台に手を加えつつ、今日も遥かなる青空を見上げている。